2012年2月20日 (月)

それが直角な理由

我が子の寝相は特徴的だ。
布団に寝せても、ベッドに寝せても、すぐ直角になる。

図でいうと、こう。

┌─┐
│○│
│△│
│Ⅱ│
└─┘
(正しい寝姿)

┌─┐
│  │
│○⊿= ← あんよ
│  │
└─┘
(直角な寝姿)


こんな感じ。わかるかなあ?

こんな不自由そうな寝方、主人も、もちろん私もしたことがない。

それで実家に帰るたびに、
「お孫ちゃんは、どうしてこんな窮屈な寝方するのかしら?」
と話題になっていたのだが、
この前実家に帰った時、私の両親に聞いてみた。


  生田
  「この子、寝る時の格好、
   布団に直角になっちゃうのって、
   誰に似たんだろうねえ?」

  父
  「僕、子どもの頃、直角に寝てたよ」

  生田
  (犯人は、おまえか……!

意外や意外。
父の自白で、ここ数年の謎があっけなく解けてしまった。

結構、ヘンなものでも遺伝していくんだなあ。

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2012年2月17日 (金)

さわやかな帰省

仕事で新宿、渋谷などを歩いていると、
オシャレな母子が手を繋いで、さっそうと歩いている姿が目に入る。
ちょっとした荷物を持って、ちょっとだけ華やかな格好をして。
おそらくこれから、ご実家に向かうのだろう。

たまにしか会えないから、きちっとした格好で。
心配させたくないから、明るい格好で。

そんな気持ちが、可愛い小物や綺麗な色選びから、
うかがえるようだった。

お子さんもいい子にしていて、
小さな背中にあった、小さなリュックを背負っている。

子育てをするようになって、こうした子供と親との風景に
自然と目が行くようになった。

私もいつかああなるのかな?
と思いながらも、いや、どうかなあ?、と首を傾げる。

実家までの移動というのは、
私にとっては、まだまだ大変な重労働だからだ。


私が、実家に移動する時、
ノートパソコン、洋服、化粧品、シナリオ資料、等々……
どうしても置いていけないものをまとめると、
手荷物はあわせてざっと、13キロほどになる。

もちろん、この重みの主な成分は、我が子だ。

実家に帰るとなれば、これら13キロを担いで、
歩いて電車のって、歩いて電車のって、歩いて電車のって……
の3セットを、しなければならない。

「ワンモアセット!」と嬉々として叫ぶ、
ビリーの姿が脳裏をかすめるほど、過酷な訓練。
ちなみに私は、三年前からブートキャンプ脱走兵だ。

そんな私が言っても説得力はないかもしれないが、
たぶん、週一で13キロ担いでうろちょろしてれば、
確実に痩せると思う。

この13キロの過酷な訓練を軽減するには、
重み主成分な我が子(推定10キロ前後)に、
歩いてもらうしかない。

我が子は活動的な子だ。
しかし、なにせ性格スペックがシャイ。

見慣れない風景、沢山の人、騒がしい音。
いつもと違うファクターに気づくと、途端に甘えメーターが上昇し、

  「らっこ!(だっこ)」

と、なる。

未知のものを恐れる気持ちはあってもいい。
その時、同時に母を求める気持ちも、
幼い者たちにとっては危険回避能力の一種と思う。

納得がいく甘えだ。

でも、我が子が、歩くか?、歩かないか?
この手にかかる重みが、3キロか?、13キロか?

それは、この「我が子が甘えたくなるかどうか?」に、
言い換えれば、「我が子が未知に気圧されるかどうか?」
にかかっている。

「プラス10キロくらい、いいじゃない」
という考え方もあると思うけれど、なにせ帰省となると距離が長い。

ずっと抱えて移動するには、
この腕は――出産以来、だいぶ鍛えてきたけれど――
まだまだ頼りなさ過ぎる。

というか、たぶん私が鍛えるより、我が子の成長の方が早い。
体重増加に追いつかない私の筋力に、無闇に期待せず、
ここはやはり、歩かせる方向で努力したいと思う。

ただ「歩け」と言って歩くほどに子供は単純ではない。
そこは、「歩こうぜ!楽しいぜ!」という気分にさせる、
仕掛けを準備しなければならない。

どんな仕掛けか?
そこには各家庭なりの苦労と知恵とがあると思う。

たとえば我が家では、ある時は、おもちゃを持って、
それをふりふり先に立ち、「へい! かもーん!」と呼ぶ。
この時、子供が興味を持つ「恥ずかしいポーズ」を取る。

この時の「恥ずかしい」のイメージは、
子供のお遊戯で使われるような、へんてこポーズだ。
詳細は想像にゆだねたい。

恥ずかしいが、そんなこと言ってられない。

10キロ以上の米袋抱えて、階段登ったり降りたり、
人混みを抜けてホーム移動したり、
電車乗り換えたり、階段登ったり、また降りたり、
出来るかという……。

おもちゃと恥ずかしポーズで気を引くことができれば、
我が子との追いかけっこが成立する。
こうなれば、また、しばらく走ってくれる。

またある時は、歌を歌う。
歩くことを楽しくするような、軽快でリズムのはっきりした歌がいい。
もちろん、子供が知ってる歌で。

気に入ると、一緒に歌いながら歩いてくれるので、
その時、「いえーい!」とか「よいさ!」とか、
接待カラオケばりに気持ちの良い合いの手を、ぽんぽん入れる。

やっぱり恥ずかしいが、そんなこと言ってられない。
なにせ相手は、10キロ越えだ。盛り上げろ。

とにかく、子供相手に中途半端はいけないのだ。

ちょっと脱線するが、中途半端がダメということで、
たとえばこんな話がある。


お母さんがお仕事で、小さなお子さんを預ける時。
お子さんが、お母さんとなかなか離れられない、
というのはよくある。

お子さんも、大好きなお母さんと離れるのは、
寂しかったり、怖かったりするのだろう。

でも、預かる方もプロなので、
おもちゃやお友だちとの会話で、ちょっとずつ
母まっしぐらな気持ちをそらし、
お子さんを、お母さんから引き離していく。

この「子供の気持ちが離れた瞬間」を逃さず、
さっとお母さんがいなくなると、子供は母不在に気づいても、
意外に、「いないもんはしかたない」と、開き直って遊ぶらしい。

しかし、この時。
「最後にもうひと目、我が子の顔を見ようかな?」、
なんて、窓から顔を出したりすると、子供はめざとくソレを見つけ、
途端に気持ちを、お母さんに集中。
火がついたように泣き出してしまう。
母まっしぐらだ。

うまく気持ちを離していったのに、ちょこっと顔を見せてしまう。
この半端な感じが子供はダメらしい。

怒るなら怒る。去るなら去る。遊ぶなら遊ぶ。
徹底しないと行けないのだそうだ。


歩かない10キロに話を戻す。

だから、歩いて貰うには、恥は捨てる。
乙女心も捨てる。

いや、本当はソレは捨てちゃ行けないのかもだけど、
自分の子供相手に可愛さなんかはまだ、要らないだろう。
そんなの母親参観日に、子供が「うちのかーちゃん恥ずかしい」と
肩身の狭い思いをしない程度に嗜めばいい。

今必要なのはたぶん、
危ない時は「ダメ!」って怒る、怖い鬼教官キャラと、
一緒に時間を盛り上げる、おともだちキャラなのだ。

「鬼教官」と「おともだち」。
これを併せ持っての、母親なのだろう。
今の我が子の年齢や性格に対して限定的にだけど、
思っている。

ともあれ、
「恥ずかしいポーズ」と「恥ずかしい合いの手」。
これは、踊りと歌とも言えるかも知れない。

この方法で、私はそれなりには
我が子を歩かせることに成功してきた。

ところがこの前、帰省した時のこと。
我が子のノリが悪かった。

私が仕掛けた数々の魅惑トラップ、
「恥ずかしくも楽しげな歌や踊り」に引っかかりはする。
だけど、すぐに立ち止まってしまうのだ。

何故だろうと思う間もなく、

  「この子、歩かされてることに勘づいてる!!」

ニュータイプのように、
キラリーンと頭にひらめきが走っていた。

そうか……。
気づいてしまったか……。

気づいてしまったからには、もう後には戻れない。
よし、大人の話し合いだ。

私は素直に、思いを打ち明けた。

  「あのね、君が大きくなってお母さんとっても嬉しい」

  「うん」

  「でも、君ね、大きくなったから、ずいぶん重くなったんだ。
   だから、もう少し、一緒に歩いてくれるとお母さん嬉し……」

  「やだ」

おう! 一刀両断!

「じゃああの柱まで」とか、「あと十歩だけ」とか、
「お荷物少し持ってくれる?」など、なおも説得を続けると――、

  「おかしゃん、ぼく、あたし、つかれちゃったんだよ~」

と、声を震わす。
なんだ、その迫真の演技は?

案の定、通りすがりのおじさんが、笑ってる。

  「あっはっは!
   ホラ、お母さん困ってるから歩こうよ」

知らないおじさん発見! 人見知りスイッチオン!
甘えんぼメータ急上昇!

  「らっこ!」

ああ……。

でも、おじさん、ありがとう!
応援してくれる気持ちだけでも嬉しい。

そうして、おじさんの応援を背中に受けながら
10キロの温かい米袋と化した我が子を担いで、
電車の乗り換えに挑む。

ホームは昼間と言え、ひと、ひと、ひと、だ。

私は右利きなので、我が子を抱えるのも右側が多い。

すると、大きくなった我が子の体で、
視界の前方、右側が大きく遮られてしまう。
私から見て、右前から歩いてくる人が見えないのだ。

これはお子さんを抱っこしてるご婦人を見かけたら、
是非とも、まわりの方は注意して欲しいことなのだが、
子供を抱えてる側の視界はかなり悪い。

そんなわけで、ホームという場所はかなり緊張する。

なにせ人は、急いでる。早足だ。
移動時間なんて人生のロスとばかりに、せかせか歩く。

目指す電車、目指す車両、目指す空席に向け、
直線的に突き進む。

そんな時、どちらが悪いこともなく、
衝突してしまうこともある。

だから駅のホームでは、座れなくてもいいから、
まわりの人を避けるのではなく、避けて貰うようにする。
動く時は、焦らず、ゆっくり。

なんなら一本逃して、次の電車にしても構わない。
それくらい、おおらかに気持ちを持つ。

これが基本だ。

で、案の定。電車が来て、座れなかった。
まあ無事乗れただけいいやね、と思いながら、
パソコンの入った鞄を足下に置いて、我が子を抱っこしていると。

  「どうぞ」

なんと、おじさまが席を譲って下さった。

  「ありがとうございます!
   ホラ、君も。ありがとは?」

  「ありあとー!」

即座に我が子と一緒に頭を下げ、
ありがたく座席に座らせていただく。

前はこういうことに慣れがなく、
席を譲られたり、荷物を持ってくれたりするたびに
遠慮して、「大丈夫です」なんて言ってしまったこともあった。

でも今は、好意は素直に受け取るようにしている。

親切な方の心を無にしてはいけないし、
やっぱりどんなに頑張ってみても、
子供も私も、移動で疲れてしまうのだ。

その分、仕事などで私単体で動く時は、
席を譲ったり、声をかけたりするように気をつけている。

もらった親切は、どこか別な場所で返せばいい。
そうやって世界がまわるのは悪くないと思う。

親切なおじさまのおかげで、思いもかけず座ることが出来た。
だが、駅に着けば、また階段を上ったり降りたりだ。
休める時には休まねばならない。

階段を歩いていると、
「エレベータあちらですよ」と教えてくれる人もいる。

でも、エレベーターを使うことは、
すごく空いていない限り、ちょっと遠慮するようにしている。

やっぱりベビーカーと車椅子の方、そして、
おじいちゃんおばあちゃん優先だと思うから。

この日も、我が子を抱えて、階段をえっちらおっちら歩く。

そんなこんなで、「ワンモアセット!」と
心の中で叫びながら、3セットの電車を乗り継ぎ、
地元の駅へ到着する頃には、へとへとになる。

学生時代過ごした懐かしい駅を見渡して、
ここが最後の交渉の場になるのだな、としみじみ思う。

実家まであと数十分。
しかし、ここまで来れば、このひ弱な母にだって、
切り札はある――。

  「ねえ、じーじさがしてみようか?」

  「……」

うお! じーじダメ!?

  「ばーばは?
   ばーばにかっこよく歩いてるとこ見せよう!」

  「う……」


じーじに続いて、ばーばの名前も効果がない。
なんということ!
じーじとばーばは、切り札中の切り札なのに!
召喚が難しい、レアキャラなのに!

これは、一体……?
我が子の様子を観察していると、
どうやらなにか、言い訳を考えているようだった。

だっこしてもらうための言い訳か。
それも、「つかれた」じゃない言葉を探してる。

  (これは、見つからないな……)

もう一押しだ。
そう思った、その時だった。

冷たい風がぴゅーっと吹き抜けた。
と、我が子の頭にピキーンとひらめきが――。

  「おかしゃん、かぜがつよくて、あるけないのー」

だー! そう来たか!
私たちが住んでる東京に比べれば、
実家のあるあたりは風が強い。

そんな言い訳を覚えられた日には、
「ずっと我が子のターン!らっこ、発動!」、
と、なってしまうではないか!
これは、なんとしても阻止せねば。

  「え~っと……。風、そんなに強いかな~?」

  「つよくて、あるけないよー」

ぺたんと座り込む我が子――またもや、迫真の演技と、
その我が子を見つめ、困っている私を見て、
通りがかりの自転車に乗ったおばさんが笑った。

  「あらー! うまいこというわねー!
   ホラ、お母さん困ってるから歩こうね!」

見知らぬおばさん発見! 人見知りスイッチオン!
甘えんぼメータ急上昇! ぎゅいいーん!

  「らっこ!」

うう……。
苦い顔をする私に、おばさんが尋ねた。

  「あら、ひょっとして人見知り?」

  「ええ。人は好きなんですけど、照れ屋なんです」

  「ま、可愛いこと。歩かないの?」

だめ押しで交渉してくれるおばさん。
でも、我が子は話かけられたのが嬉しくて、恥ずかしくて、
でも、やっぱり嬉しくて、ますます私にしがみつく。

  「よおし、わかった! だっこだ!」

我が子を、よいしょっと担ぐ私。
おばさんは、
「お母さん、頑張り屋さんねえ。でも今のうちだけだからね!」
と、笑って去っていった。

実家につくと、
どれだけ歩いたのか、歩かなかったのか報告会だ。
当然、母からは厳しくチェックされる。

  「美和、お前、甘やかしてるんじゃないの?」

でも怒ったって泣いてしがみついてだっこになるし、
泣いたら泣いたで電車の中では大変な迷惑だろう。

そうじゃなくたって泣いちゃうこと、ぐずることはあるんだから、
機嫌よく移動したいんだ、と私なりの考えを言うと、

  「まあ美和ちゃんの子だからね。
   美和お母さんが育てなさい」

と、母は渋々、苦笑する。

そんな母の苦い笑顔を見るたび、
私ってちょっと甘いのかなあ?と思いもするのだが、
おおらかに認めてくれる母に感謝する。

子供を連れてると、本当に、
恥ずかしいことも、情けないことも、もどかしいことも多い。
苦笑や微笑み、爆笑、泣き笑い。
自分にも周囲にも、色んな笑いが絶えないものだ。

でも、きっといつか、こんな、
大人の世界とはちょっとずれたちびっ子感覚はなくなって、
君はすっかり大人になってしまうんだろう。

おばちゃんが言ってくれたとおり、
こんな時期はすぐに過ぎてしまって、もう二度とこないのだろう。

だから、今しばらくは、甘えん坊で恥ずかしがり屋で、
ちょっとクレバーになった君を抱えて、
汗だくの帰省といこうじゃないか。

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2011年5月29日 (日)

さざなみのみなもと

我が子の誕生日に来てくださったお義母さまが、
帰ることになった。

今日は、生憎の雨――。
「だいじなお孫ちゃんを雨にあてたくない」
という理由で、一緒にいる時間が削られていく。

それでも傘を持って我が子を抱いて、
お見送りに出た。

我が子は始終、不機嫌だった。
いざ、バイバイするだんになって、
我が子は手をふることもできなかった。

我が子を抱っこしての帰り道、
我が子は私の肩に顔をうずめて静かになってしまった。



生田「どうしたの? 眠くなっちゃった?」


首を振る我が子。



生田「ねえ、ママのこと好き?」

我が子「しゅき」


と、我が子は低い声でボソッと言った。



生田「パパのこと好き?」

我が子「ぱぱしゅき」

生田「横浜のじーじ好き?」

我が子「うん、じーじしゅき」

生田「横浜のばーば好き?」

我が子「よこはましゅき」

ちょっと、混乱してきたなー、と思いながらも、
我が子に聞いてみる。


生田「福島のばーばのことすき?」

我が子「ふくし、ばーばしゅき」

生田「みんなのこと好きなんだね」

我が子「うん、しゅきー」

生田「みんなもね、君のこと大好きなんだよ。
    だからね、またみんなで遊ぼうね」

我が子「うん」


肩の上、我が子がこっくりとうなずいた。

この寂しい気持ちは、誰かを好きだから生まれる気持ち。

誰かの存在が自分の心の湖にさざ波を立てることがあっても、
それが耐え難い大波になったとしても、
その気持ちがやってくる源を知れば、受け止められると思う。

生まれくる気持ちの意味が少しでも伝わればと思う。

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2011年5月16日 (月)

うたえGoing My Way

我が子はPerfumeが大好きです。
聞きかじったものを真似て、うたっています。

「ねぇ」の場合――。

「♪ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ。きょーは、どこ、いこーかな♪」

「チョコレイト・ディスコ」の場合――。

「♪とこ、れえと、いすこ! とこ、れいと、いすこ!♪」

短い単語を繰り返してくれるので、歌いやすいようです。
最近は、「VOICE」がお気に入りで、


「♪えーびしーで、いつものぼーいす!
 ぐっとくる、いっすんの、こいが~♪

 かがあく、ほーせき、みたい~に、
 つーうくー、なら~♪」


と、歌っています。
難しい言葉を、我が子なりの解釈で、
自分が分かる言葉に置き換えて、アレンジしているようです。

歌詞もそうですが、我が子の歌は、音程もリズムも危ういので、
元の曲とはだいぶ違うはずなのですが、
ちゃんと「VOICE」に聞こえてくるから不思議です。

聞く側の知識や気持ちも入り込んで補完されるから、
多少、うまく歌えなくっても、
その曲ならではの佇まいや雰囲気って、
ちゃんと漂うものなんですね。

歌う人と聞く人を、そっと近づけてくれる。
音楽っていいなあ、と思いました。

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2011年5月12日 (木)

ママの誘導尋問

我が子と買い物に行った帰り道。
我が子が案の定ぐずり始めた。

ウィンドウショッピングも、公園も、
楽しいことはもう終わりだと分かってしまうのか、
帰り道というのは、ぐずることが多い。

陽も陰ってきて、
人々が影を引きずり家路を急いでいる様子も、
少し寂しい感じもするのかもしれない。

今日はスーパーで買ったバナナをあげて、
気を紛らわせることにした。


生田「バナナ、どうぞ~」

我が子「うん、ばなな~」


美味しそうにバナナを食べる我が子。
ご機嫌が治ったみたいだ。


生田「バナナ、おいしい?」


我が子「うん、ばなな、おいし~」


生田「どう? 甘い?」


我が子「うん、どう、あまい~」


私の言葉を繰り返し、もくもくとバナナを食べる我が子。
ちょっと面白くなってしまって、つい。


生田「ばなな、イエーイ!!」


我が子「ばなな、いえーい!!」


ちょっと悪かったなあと思って、


生田「ごめんね~。ママふざけちゃった~」


と謝ると、


我が子「ごめんしゃーい」


と一緒に謝る。


生田「君は悪くないのよ。謝らないでいいのよ」


我が子「うーん???」


我が子はまだ言葉をモノマネしてしまう。
それでも、そこには我が子らしい気持ちが感じられる。

あとどれくらい、こんなおバカなやり取りできるかな、
などと思いながら、少し先の未来を思う。

こどもは日々成長し、一日、一日と、親から離れていく。
けれど、我が子が十分に成長し、
自分の言葉で自分の気持ちを伝えられるようになっても、
それが私たちの距離を遠ざけるものではないはずだ。

未来の帰り道にも、きっと
大きくなった我が子との会話が待っている。
その日を楽しみにしていよう。

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2011年5月 6日 (金)

ことばのむこう

おやつに一番大きなクッキーを手にして、


「これ、おーきしぎるー!(これ大きすぎる!)」


と、笑う。

お兄ちゃんたちと一緒で楽しかったね、と言うと、


「おにーた、いっしょ、うーむ、うーむ……。
 (おにーちゃん、いっしょに……)」


と、言葉につまる。


お花を見ると、


「ぱんぽぽー!(たんぽぽ!)」


でも、本当はつつじ。


どうして、大きすぎるクッキーを手にするのか?
どうして、楽しかったことなのに言いよどんでしまうのか?
どうして、つつじがたんぽぽなのか?


それは、そこに気持ちがあるから。

大きなクッキーを手にするのは、ママと分けて食べたいから。
言いよどんでしまうのは、遊んだ記憶があまりにも楽しすぎて、
うまく言葉に出来なくて、もどかしいから。

つつじがたんぽぽになるのは、
たんぽぽの中でお友だちと遊んだのを覚えているから。


子どもを見ていると、
言葉はそこにあるものだけを指しているのではないとわかる。
背後には、大切な思い出が重なりあっている。

正確に気持ちを伝えることの大切さを学んでいくに連れ、
こうした会話も、言葉通りのものに置き換わっていくのかもしれない。
そうして、私たちはおとなになったのかもしれない。

大人同士の会話では忘れてしまうことを、
子どもたちは教えてくれている気がする。

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2011年5月 3日 (火)

すべりだいの不思議

先日、我が子を連れて公園にでかけました。
お天気だったので、たくさんのお子さんが遊んでいました。

こちらの公園は鉄棒やブランコなどの遊具が豊富で、
動きたいざかりの子どもたちは、歓声をあげて楽しんでいます。


「うーむ、すべーだい!(すごい、すべりだい!)」


と、我が子も大はしゃぎです。

滑り台というのは、不思議な遊具です。

滑り台は一見、シーソーなどの
一緒に遊ぶおともだちが必須の遊具と違って、
ひとりで遊べるように見えますが、
実はそうではないんです。

たとえば階段を登る、そのわずかな間にでも、
子どもたちは実に様々なやりとりをしています。

階段を登るというのは赤ちゃんや小さい子どもたちにとって、
非常に個人差が出るところです。

ある子はさっさと登れますし、
ある子はお母さんが支えないと危なっかしい。

うちの子は、人が大好きなのに、
とてもシャイなところがあるので、
後ろから誰かが登ってくると、嬉しいくせに恥ずかしくなって、
階段から降りようと、逆流してしまう時期がありました。

そんなわけで、この階段のところで、
子どもたちは自分の順番が来ても、
前の子がつっかえていたり、後ろの子にせっつかれたりと、
自分のペースで登れないことがあるわけです。

そして、滑るところにくると、また色んなことが起きます。

さーっと滑る子もいれば、
怖くてなかなか滑れない子がいます。

お母さんが見守ってくれないといやだなあということで、
関心を買おうと、しばらく籠城する子もいます。

周りの子に、自分はこんなすごいことが出来るんだよ、
と様々な滑り方を披露し始める子もいます。

また前の子と意気投合して、その子の気持ちはともかく、
とにかく一緒に滑りたくなっちゃう子もいます。

ここでも子どもたちひとりひとりの気持ちが、
素直に行動に現れてきて、色々なことが起きています。

でもここで注目すべき点が、
滑り台という場所が、お母さんたち保護者が
さっと駆けつけられる場所とは違うという点です。

もちろんお母さんたちも一緒に登ることもできますが、
滑り台が耐えられる重量の問題があるので、
基本的には滑り台の上は子どもたちだけの空間です。

つまり、滑り台は子どもたちだけの社会なのです。
滑り台という共有空間をみんなでどう使うのか?、
それを、子どもたちは子どもたちだけで考えているんです。


数ヶ月前までは、滑り台を怖がって、
私が滑り台に身を乗り出し、両手を広げて、
途中で受け止める用意があるよ、ということを示さないと、
まず滑ることができなかった我が子も、今月はガンガン滑っています。

そして我が子は、階段を譲りあい、
小さな子がなかなか滑り台を滑らなくても、
その子が頑張る姿をじっと見つめて、滑り終わるのを待ち、
自分も滑り終わると、にこにこしながら
前の子の後をついて行くようになりました。

いつの間にか、「どうぞ」とか、「ありがとー」
なんて言いながらです。

ここまで滑り台を共にしてくれた優しいお友達たち、
我が子が怖がっていた頃、
順番を待ってくれたり、譲ってくれたりした
少し年上のお姉ちゃんお兄ちゃんたち、
そして我が子が滑れたとき、
明るいお声で褒めてくださったお母様たち。

みなさんの気持ちがなければ、
我が子のこの成長はなかったと思います。
感謝、感謝です。

滑り台はいいものです。
みんなで仲良く使って、一緒におとなになってね、
と思います。

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2011年4月30日 (土)

聴いていたい

我が子が、童謡の雪を歌い始めた。


 「♪ゆーきやこんこん、あられやこんこん、

  ふっては、ふっては、だいーじょーぶ♪

  さみしくないよー、だいじょーぶ♪」


オリジナルの歌詞に聞き入っていると、


 「いっしょに、うたって~」


だって一緒に歌うと、君のオリジナルの歌が消えちゃうんだもの。

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2011年4月21日 (木)

ちいさくておおきなこと

先日公園に行ったときのこと。

我が子が、


「うーむ、これ~(これ、あそびたい)」


と、シーソーに乗りたがった。

主人がいるときは別だが、「子供+母親」だけだと、
ふたりでシーソーに乗って遊ぶことはできない。

そこで、「絶対に降りちゃダメだよ!」と念を押して、
我が子を座席に座らせ、私はシーソーの反対側へ回って、
傍らに立ち、その座席を押したり、引き上げたりして遊ぶことにした。
手押しポンプ式の井戸で水を汲み上げるみたいな感じだ。

「楽しい?」と聞くと、
「うーむ、たのしいねえ」とのどかな声で答える。

そうやってしばらく、
シーソーを上げたり、下げたりしていると……、

我が子と同じ年頃くらいの小さな女の子が、
てってってーと駆け寄ってきた。

女の子はシーソーを指さして、
遅れてやってきたお母様にアピールしている。

すると、「ご一緒してもよろしいですか?」と女の子のお母様。
「どうぞ」と私。

もう、この時点で人懐っこい我が子は
嬉しくてしょうがないらしく、でも恥ずかしがり屋さんなので、
借りてきた猫のように、ちょこんと座って目だけキラキラさせている。


「今日はお天気ですねえ」「ほんとですねえ」
なんて、女の子のお母様とのんびりした会話をしていると、
女の子は満足したらしく、シーソーを降りると仕草で示した。

「お世話になりました」「こちらこそ」と、ご挨拶してお別れすると、
我が子も足を上げて、シーソーを降りようとしていた。


「あら、もういいの?」

「うーむ、もういい」


素っ気無く言って、我が子はさっと駆け出していってしまう。


「おい、どこいくのよー」


我が子は鉄棒の前に来ていた。
さきほどシーソーを遊んだ女の子が来ている。

一番低い鉄棒で奮闘する女の子から離れて、
我が子は、わざわざどんなに頑張っても届きっこない、
一番高い鉄棒相手に、ジャンプを繰り返している。


(もしかして、女の子を追いかけてきたのかな?
 偶然かな?)


と思っていると、女の子のお母様の方から、
「こっちの低いほうの鉄棒、どうぞ」と
声をかけてくださった。

我が子の顔に、溢れるような笑みが浮かぶ。

その笑顔を見て、私はハッと息を飲んだ。

我が子は今、ともだちをつくろうとしているのだ!


邪魔しちゃいけないと思って
緊張しながら様子を見守っていると、
一番低い鉄棒に、女の子とふたりで飛びついている。

小さな子がならんでぶらーんとぶらさがっている姿は、
なんともいえず、微笑ましい。

隣同士ぶら下がっているうち、女の子と我が子の間には、
一緒に遊んでいるという感覚が生まれたようだった。

その後、ブランコでも遊び、ジャングルジムを素通りし、
さて、次は何で遊ぼうか?という時に、鳩がやって来た。


「はとだ!」


鳩がてけてけと歩いてきたのだった。

鳩はいい。
子どもたちが頑張って追いかけても、
追いつくか、追いつかないかくらいの、
ちょうどいい速度で走ってくれる。

その上、飽きっぽい子どもが興味を持っていられるように、
右に左に迷走したり、物陰に隠れたりする。

鳩の方に、子供への優しさがあるのかわからないけれど、
子供の遊び相手になってくれているのは事実だと思う。


我が子の「はと~」という叫びを聞いて、
女の子も「あっ!」となっていた。

ふたりは、どちらからともなく鳩を追い、走りだした。


「きゃっきゃっきゃ!」

「はと、まてー」


ちいさな追跡者たちは、笑いながら走っていく。

鳩がベンチの向こうへ隠れれば、
それぞれベンチの右側と左側から回りこみ、
はさみうちにしようとしたり、

鳩がテーブルの下に隠れれば、
一緒になって覗き込んだ。

言葉らしい言葉は交わしていないのに、
ふたりのコンビネーションは抜群だった。


「きゃーっ! きゃーっ!」

「たのしー!」


やがて、ふたりは隠れた鳩をすり抜けて、
ふたりで追いかけごっこを始めた。

楽しさが頂点に達しているのだろう。
私たち母親なんて忘れてしまって
きゃっきゃっ、きゃっきゃと走り回っている。


「あらあら。鳩、おいて行っちゃったわ」

「楽しくなっちゃったみたいですねえ」


歓声をあげて駆けまわる子どもたちの姿は、
見ているこちらにまで喜びがあふれてくるようだった。


興奮した我が子と女の子は、そのうち、
どちらがどちらを追いかけているかわからなくなり、
子供なりの全速力で、お互い相手めがけて
まっしぐらになってしまった。

完全に、正面衝突コースだった。


「危ない!」


慌てて飛び出そうとしたけれど、
その必要はなかった。

我が子と女の子は、私の目の前で、
ガシッと抱き合っていたのだ。

ちいさなその手は、
ちいさな相手の体に回りきらない、
それでもぎゅうっと抱きしめている。

その一連の動作が、とても愛らしかった。


「あらら」

「だっこしてる」


お母様と一緒に、思わず笑ってしまった。

ふたりはガシッと抱き合った身体をほどくと、
照れ笑いをしながら、ふたりで私たちの方を向いた。

母親を見上げるふたりは、なんだかちょっと誇らしげだった。


どう? おともだちできたのよ!


そう言っているみたいだった。

ふたりはまた走り始めた。
飽きもせず、ずっとずっと。
この追いかけっこが続いていくようだった。

楽しい時は瞬く間に過ぎていく。

少しお日様が陰って、寒くなる。
穏やかな音楽が流れはじめ、帰りの時間を告げる。


「それじゃあ、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、お世話になりました。またね」


お別れの挨拶を交わしていると、
我が子が火がついたように泣き出した。


「うーむ、うーむ、うーむ! いっしょ!!
 (ずっと、ずっと、ずっと! いっしょ!!)」


胸が張り裂ける様な叫びだった。
我が子は去っていくその女の子を指さし、


「あいたいー! あいたいー! あいたいー!」


と繰り返し叫び続けた。

覚えている僅かな単語で、
別れたくないことを必至に伝えようとしていた。


「うーむ、いっしょー!」


道行く人が振り返るほどの嘆きっぷりだった。

まだ、お互いの名前も言えないのに。
声の限りに別れを拒む。

明日には忘れてしまうかもしれないのに。
そこまでの思いを、誰かに向けることがある。

私は、すこし切なくなった。

我が子は家に帰り着く前に、眠りについた。
泣き疲れてしまったのだ。

怖い夢にうなされないかと心配しながらも、
私も我が子を抱きしめて横になった。

連絡先を聞いておけばよかったのだろうか、と少し悩んだ。
なかなか眠れない。
新米母親の悩みは尽きない。


起きたとき、
我が子は意外にもスッキリした顔をしていた。


「今日はいっぱい遊んだね」


と尋ねると、


「うん、たのしかったー」


と笑顔で言った。
少しあまえんぼさんに戻っていたけれど、元気いっぱいだ。

この日感じたいっぱいの喜びといっぱいの悲しみを、
我が子はちゃんと乗り越えようとしている。

悲しませないように、傷つかないように――。

そういう育て方もあるだろうけれど、
我が子の晴れやかな笑顔を見て、
我が子にはこれでよかったのかもしれないと思った。

私は、自分が我が子の人生に、
ずっと添い遂げることはできないと思っている。

だから、我が子が進む人生に散らばる無数の小石を、
いつまでも片付けて、助けてあげられるわけではないと思う。

そういうことがわかっているから、
我が子には、転んでも自力で立ち上がる、
そんなたくましさを身につけられないかと、
そう考えてしまう。

冷たいのかな。
厳しいのかな。
迷うことは沢山ある。

でも、悲しいことや辛いことを知っているからこそ、
好きな人との出会いを、楽しい時を、
大切と感じる心が育つのではないかと思う。

だから辛くても、切なくても、母親である自分が、
我が子の涙に引きずられるわけにはいかない。

そんな覚悟をしてるなんて、
母乳を飲ませられなくて泣いていた頃と比べたら、
私もちょっとは強くなったんだ。

我が子は、ご機嫌で積み木やお絵かきで遊んでいる。


「うーむ、おいでー。
 (はやく、おいで、いっしょにあそぼう)」

「はいはーい」


小さいながらもまたひとつ、大きく強くなろうとする、
その、我が子のこころと、未来を信じている。

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2011年4月18日 (月)

いやなことはノリでやる

玩具をお片づけしている時、
子供の替え歌?が、聞こえてきました。

♪ドキドキさせるよ~、ドキンちゃん~のメロディで、


「しらしら、しらしら~、しらびとり~!

 しなしな、しろしろ~、しのびとり~!

 ひなひな、ひのひろ~、ひのぼちゃ~ん!」


普段は嫌がるお片づけも、
歌っている間はご機嫌でやっているようです。

こんな小さな子でも、
歌ってノリながら作業をすると楽しい、
というのがわかっているんですね。

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