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2012年3月 3日 (土)

声のあるゲーム、声のないゲーム(3)

前回、「声のあるゲーム、声のないゲーム(2)」の続きです。



ここまで、RPGに声が吹き込まれることによって、
開発者が得た利点と、ユーザーさんが得た利点を
順番に見てきました。

簡単にまとめると、
開発のメリットは人間ドラマが描けるようになったこと。
ユーザーさんのメリットは、キャラの共有とわかりやすさ。
こんな感じになるでしょうか。

いいことづくしにも見える、ゲームへの「声」の参入。
でも、そんな数々の利点を知りながらも、
やはり、ゲームから失われたものもあるのだ――と、
そう感じる人たちもいるのです。


「イメージが違う」
「声優人気に踊らされている」
「キャラがアニメアニメしていやだ」等々――。

そんな声は、私も耳にすることはありました。
でも、それらは好みの違いということもできます。


しかし、趣味の違いや、気のせいや、
懐古主義などという言葉で片付けてしまうには、
先の声優さんをはじめ、色々な方々が、
漠たる不安を抱えていたりもするのです。

その不安はどこから来るのでしょうか?
もしかして本当に、
声優さんの声がついたことで、何かが失われた、
ということがあるのでしょうか?

もし失われたものがあるとしたら、
一体、何が失われたのでしょうか――?


このシリーズの最後に、この点を考えて、
私なりの答えを出してみたいと思っています。




(5)失ったものを探して……遊び手編

声のあるゲームに抵抗を覚えるのは、おそらく、
ゲームに声がなかった時代を体験している世代ではないか?
そう、私は推理しています。


かくいう私も、はじめてさわったコンシューマーが、
セガさんのセガ・マークIII 。
声がない時代に、子供時代を過ごしたひとりです。

まずは、遊び手のひとりとして、
声のないゲームの時代を振り返ってみようと思います。



声がないゲームを、遊んでいた世代――。
その世代というのは、
とても特別な世代だと私は思っています。

その時代、ゲームというのは本当にまっさらなものでした。

インベーダーゲームで100円玉をつぎ込む若者を、
眉を寄せて批判し、ゲームセンターが不良の巣窟だと、
思い込んでいた、そんな親を持つ世代でもあります。

世に出たばかりの家庭用ゲームです。
大人に叩かれて当然、そんな土壌が各家庭にありました。



大人たちには、まるで把握できていないもの――。
なんだろうと恐れ、排除しようとさえするもの――。


でも、それゆえに家庭用ゲームには、
上の世代の手垢もひとつもついていませんでした。


それは、まるまる、子供である自分達のものだったのです。


今まで存在しなかったもの。
自分達が、世界中で一番はじめに触れていいもの。
そんな遊びが、かつてあったでしょうか?


だから私たちは、みんながみんな、
ゲームというものに耐性がありませんでした。

どんな楽しさをもたらしてくれるものなのか?
そんなこともよくわからないまま、
ただ、初めてづくしの経験に、ドキドキして、ワクワクして、
純粋にゲームを求めていたのです。

いわば、ノーガードで何でも来い!な感じでした。



本当に、当時を振り返ると、
走馬燈のように様々なゲームが心に浮かびます。



「シャーロックホームズ 伯爵令嬢誘拐事件」が、
まさか、あのようなゲームだったとは、
タイトルからはまったく想像出来ませんでしたし、
それでも、「ゲームってこうなんだな!こうなんだな!」
と、泣きながらやった覚えがあります。



ゲームというものの姿はまだまだ朧気で、
その立ち位置も確立されてはいませんでした。

声のないゲームを遊んでいた人々というのは――
ゲームのその誕生に立ち会い、
ゲームする自由を求めて大人たちと戦い、
混沌カオスな数々の珍品迷作を、皿ごと喰らってきた世代です。

ゲームと共に育ってきた世代なのです。
その思いは、格別深いものだと思います。



当時、子供だった人たちにとって、
ゲームは、間違いなく最先端の遊びでした。

だから私の中にも、遊び手として、
声がないゲームを、子供時代に遊んだゲームを、
懐かしむ気持ちがあります。

でもそれは、ドット絵を惜しむ気持ちや、
ムービー演出にちょっとやり過ぎかなと思う気持ちにも似て、
「これは趣味の範囲かな?」「これも進化のひとつの先だし」
と、前向きに考え直せるところでもあるのです。

つまり遊び手である私には、はっきりと、
「声がつくことによって、ゲームからこれが失われた」
と、言い切れるものがないのでした。



では、視点を変えて――。
開発者としてゲームを見てみましょう。




(6)失ったものを探して……作り手編

私がゲーム業界に入ったのは1995年。
その頃、まわりはまだ、声がないゲームだらけです。

当時のゲームは、
現実のどんな娯楽作品と比べても、
描こうとするもののスケールに比べ、
視覚情報や、聴覚情報が絞られているように見えました。

ファンタジー映画のような広がり、
小説のような奥行きがある独自世界を、
凄腕の職人さんが、全部ドット絵で描いている。

それがとにかく凄くて、圧倒されたものでした。



この「世界をドット絵で表現」というのが端的に表すように、
グラフィックに限らず、メッセージや音まわりにも、
様々な制限がありました。

しかし、それらの過酷で複雑な制限が、
開発者たちに、無駄をそぎ落とした機能美を追究させ、
美しくもシンプルな様式美を実現させていたようにも
感じるのです。



あの頃の開発で、私は「引き算の美学」を学びました。

最低限、これだけの素材でイベントが作れる――。
仕掛けが作れる、マップで遊べる。
そういう、ものの基本を叩き込みました。

使い方次第でいかようにも化ける、
そんなシンプルな公式のような概念が、
開発現場の至る所に転がっていたのでした。



僅かなもので最大の効果を――。
華麗に、大胆に――。
そこはまさに、職人の世界です。



でも、その一方で、
娯楽産業の中に地位を確立し始めたゲームが、
同じ子供向きの娯楽の漫画やアニメーションと比べると、
「人間の心情への踏み込みが足りない」と、
いわれたことは多々ありました。



私の場合は、そういった雰囲気を
ゲームをしない女性たちから感じていました。

「本や漫画はバトルがあっても、友情とか感じられるけど、
 ゲームは所詮、殺し合いでしょう?」

例えば、こんな意見は、わりと耳にするのです。



当時は女性開発者が珍しかったですし
「ゲーム=男の子文化のもの」という認識が根強く、
女性のゲームに対する理解は、
今ほどおおらかではありませんでした。

なので、この手の意見が出ると、
バトルシステムを搭載したRPGに関わる身としては、
ぐうの音も出ない気もしたものです。



それでも私は、RPGが子供時代の自分にとって、
かけがえのない宝物だったことを、
自分の体験として知っていました。

言葉足らずで多くを語らないRPGは、
文化の違う海外ファンタジー小説を読むのにも似て、
行間を読んでいく楽しさというものがあったのです。



足りない部分を補い、行間を読ませるゲーム。
名もない人々の思いを、様々に思い描くゲーム。

その時、ゲームの主役は間違いなく、世界そのものであり、
そして、その世界を旅する、私たちの心だったと思います。

ゲーム嫌いの女性たちでも、そんな話をすれば、
多少は批判と疑いに満ちた目が和らぐところはありました。

「なんか、すごいね」と、びっくりしてしまう人も、
「あなたの作るもの、見てみたいな」と、
笑ってくれる友だちもいました。



かつての知人友人たちが、子供を育てるお母さんになって、
ゲームに疑いを向けるようになった時――。

「これなら、子供に見せてもいい」ではなく、
「これなら、子供に遊ばせたい!」というものが欲しい。
できれば、この手で作りたい。

ゲーム嫌いな女の子たちの存在は、
そんな新しい思いも育ませてくれたように思います。



話を、声のあるゲーム、声のないゲームに、
戻しまして……。



そうした、経緯があるからかもしれませんが、
開発者としての私は、なんとなく勘づいていることは、
あるにはあるのです。

声によって、ゲームから「何」が失われたのか――。
その答えについて。



もし、声がつくことで、失ったものがあるとしたら。
それは、「開発側の姿勢」である、と私は思っています。



「失われた姿勢」があり、代わりに「得た姿勢」がある。

得た姿勢、それは――
「世界が主役ではなくていいんだ」という姿勢、
多くのアニメや漫画と同じように、
「キャラで押していくんだ」という姿勢です。



無論、これらの姿勢は間違いではありません。
新たな価値観であり、新たな可能性であり、新たな挑戦です。

しかし、新たに獲得したこれらの姿勢は、
以前の開発にあった姿勢とは相反するものです。



主人公たちを通じて、ユーザーさんの心が旅をしていく。
そのユーザーさんの心の中に物語を描こうとしていた、
古き良きRPGの姿勢――。

キャラ押しのものの考え方に、
特定のキャラの性格を前面に押し出していくものの中に、
そういった繊細なものは、宿りにくいのです。



そぎ落とされた美学を持つ大量のNPCメッセージや、
少ない文字数で紡いできた行間の空いたイベント。

それらの限られた文字情報を、
ユーザーさんの心がくぐっていく時――、
そこに、粉雪のように微かに、なにかが降り積もる。

そして、降り積もったなにかの断片は、
ユーザーさんの想像力を借りて、自由に羽ばたき、
やがて遊び手独自の、世界と物語を完成させる――。

そんなものの作り方と、
キャラ押しのものの作り方とは、かなり違うのです。



繰り返しますが、今の流れに乗って、
ゲームをキャラ押しで作っていこう!、というのは、
構わないことだと思います。
声優さん人気も後を押してくれることでしょう。



でも、世界を見せるということを、
そこをユーザーさんの心に旅してもらうのだということを、
そして、そういうものを作ろうという姿勢を、
誰も彼もが、根こそぎ捨ててはならないと思うのです。

でなければ、ゲームはその地位を、
アニメや漫画や小説など、
物語やキャラを見せることに長けた他の娯楽産業に、
簡単に奪われていくでしょう。

そうなれば開発現場では、
「世界を描き、体感させる」、その結果、
「ユーザーの心に、それぞれの物語を描かせる」などの
アイデアを出すことなど、不要になっていくのです。



そして、ここが一番肝心なのですが――。

もし、ゲームの主役を、ユーザーさんの心ではなく、
キャラ押しできるほどに完成された架空のキャラである、
と決めうちするのならば、それはもはや、
アニメや漫画や小説で、充分に体験できるものなのです。



ゲームにしなければ体験できない――。
ゲームだから表現できる――。

そんなものではなくて、
アニメの一部分をゲームにしました、
漫画の一部分をゲームにしました、
小説の一部分をゲームにしました、
になってしまうのです。

あんなに広がりのあったRPGの無限の大地が、
他の作品の中の、ほんの一部分になってしまう。

そんなことが、現実になってしまうかもしれないのです。



声ありゲームからの、キャラ押しRPGへの転換は、
RPGシナリオライター志願者の、つまづきの元にもなっています。


RPGシナリオに携わる者が持つべき第一の姿勢は、

「自分の産んだキャラの物語を、開発に作って貰うんだ!」

ではなく、どちらかと言えば、

「ユーザーさんの物語を、紡げる世界を準備するぞ!」でした。



もしも、自分の産んだキャラや世界を世に出したい!、
というのなら、ゲーム性を伴わないですむ、
漫画や小説を手がける方が、ずっと早いのです。

ユーザーさんが待っているのは、
「そのゲームならではの体験」であり、それは、
「他の作品で表現できたことの再現のみ」ではないのです。

ゲーム業界を志す一番の動機は、
「面白いゲームが作りたい!」であってほしいと思います。
本音がどうあれ、そういう気持ちも育ててほしいのです。



ゲームは、ユーザーさんが主役。
そのために我々開発は総力をあげて、
冒険できる舞台、遊べる世界を用意する。

いつの間にか、そんな心意気や概念が、
開発から失われつつあるのかもしれない。

それが、私が危惧している、
「声がついたことで、ゲームから失われつつあるもの」
の正体なのです。



子供時代、他の誰でもなく、
自分自身を主役として遊ばせてくれた、
そんなゲームの感動は、
いつまでも忘れられないものだと思います。

そして、そんな子供時代を経て、
声がないゲームの開発にぎりぎり飛び込めた私だから、
より一層、感じてしまうのかもしれませんが、

キャラ押し一色、キャラ萌え一色に染まっては、
かつてあったRPGの良さは、
かなりの部分が消えてしまうのではという不安が、
ぬぐえないでいます。




(7)さいごに、古き良きを知る人たちへ

「ゲーム開発者として、
 ゲームに声優の声があるってどうなんですか?」

今度、あの声優さんに出会ったら、
もっとはっきりと答えられます。



想像力が奪われたと思う人もいるが、
キャラのイメージが固定化されて、
大勢の人とすぐに一緒になって、
一層細かい想像ができるようになってきた。
それは、新しい楽しみ方だと思う。

そういう良さもあるので、
ユーザーがなくしたものは、おそらくまだない。

シナリオライターとして言わせてもらうならば、
表現の自由を手に入れ、
人間ドラマに踏み込めるようになった。

でも、開発の一部は、もしかしたら
ユーザー主役&世界主役のゲームの作り方を、
古いものとして封印しつつあるかもしれない。



そして、そうした流れが強くなれば、
RPGはキャラありきキャラ押しのものだけになって、
漫画やアニメや小説にさらに近づき、
「自分を主役として、自分の物語を冒険するもの」では、
なくなってしまう可能性がある。



開発の考え方によっては、
将来、大きなものが失われる可能性はある――。

そうした未来への予感が、漠たる不安となって、
「ゲームに声がつくのはどうなのだろう?」という、
言葉になって、出てきてしまうのではないでしょうか?

これはあくまで私の考え方ではありますが、
「もしかしたら、これがひとつの答えになるかも?」、
と思っております。



私は、世界が主役だった頃のRPGを忘れたくはありません。
自分が主役となって、旅した世界を捨てたくはありません。

振り子が揺れるように、人間の価値というのは、
同じところにとどまり続けるものではありません。
人間は、慣れて、飽き、そして、変化と刺激を求めるからです。

ですから、たとえ今、流行ではないとしても、
世界が主役で、ユーザーさんが主役で――、
そんなRPGの作り方が、その姿勢や技術が、
いつの日にかまた、必要になると信じています。

ですから、
RPGシナリオを書きたいと目指す人には、
キャラは弱くても、世界を中心に据え、
ユーザーの心の中に物語を構築していくやり方が
かつてはあったことを、
忘れずにいてほしいと思っています。



その時代を知ってるひとはそれぞれに奮闘し、
古き良きRPGの火を絶やすな、ということ――。

それが、「声があるのってどうなのかな?」という
不安の先にある、「声のないゲーム」を知る者としての、
ひとつの役目ではないかと思うのです。



読んでくださって、ありがとうございました。
それではまた、いつか。

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