ひみつのなまえ
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ゲームを遊ぶという行為自体は現実を生きることに忙しくなっていくに連れ、いつかは卒業してしまうものかもしれません。ですが良い本が時代を超えて心に残っていくように、ゲーム世界で過ごした冒険の日々が皆さんの心の栄養になって、 皆さんの心を形作る一助になってくれればと私は願っています。
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今日は雨ですが、郵便局まで足を伸ばしました。
大切なお手紙を届けるために。
今、お手紙をやりとりする方がいます。
90歳のご夫人です。
きっかけは、我が子の七五三の時でした。
実家に帰ると、小さな愛らしいお着物が飾ってありました。
早春の空気を思わせる淡いブルーと、薄く色づく桜のピンク。
一目見て、今の時代の物ではないだろうなとわかる、
繊細で可憐なお着物でした。
母に尋ねると、それは今から数十年前、
私の三歳の時、さるご夫人が手ずから縫い上げ、
染め上げて下さったものでした。
その方は、父の育ての親にゆかりの方で、
私から見れば、祖母の代に近い方でした。
すべてが、はじめて知る話ばかりでした。
私は急いで、自分の記憶と照らし合わせました。
お名前だけ、かろうじて覚えているご夫人が、
そのゆかりの方の娘さんだとわかりました。
手紙を書こう!、そう思いました。
私の元に、お母さまの縫って下さったお着物があること――。
それを、お知らせしたい。
いや、お知らせしなければならない。
そんな気がしたのです。
しかし、娘さんとはいえ、その方ももう90歳を越えられています。
返事はないものと思い、催促などしないこと。
目の負担にならないように、大きな文字で書くこと。
誰かに読んでもらうことになった場合に備え、
優しくて、わかりやすい内容にすること。
そんな助言を年配者からいくつもいただいて、
何度も書き直しての、ポスト投函でした。
ところが一週間後――。
期待しないよう努めていたお返事が、届いたのです!
流れるような美しい文字で、写真への感謝と、
そして、私の七五三のお着物を作って下さった
お母さまの思い出が綴られておりました。
お母さまは、とても社交的で魅力的な女性だったそうです。
新しいもの、楽しいものを見つけると、
有名な先生方に弟子入りしたり、有名な教室まで通い詰めて、
学んでいたそうです。
編み物、声楽、ダンスやモデル――。
真っ白な便せんの上には、様々なものにチャレンジする
お母さまの姿が、生き生きと描かれていました。
明治から大正時代と言いますと、
女性の自由が、今よりも制限されていた、との印象があります。
そんな中、好奇心に導かれ、
上流階級を、時代の流れを、古いしきたりを――、
軽やかに駆け抜け、鮮やかに飛び越えていく。
そんなお母様の姿は、まるで、ドラマの中のヒロインです。
時を越えて、エールを送られているようでした。
今日は、そのお返事を出しに行きました。
あまりうまくは書けなかったのですが、私の仕事のことなど綴りました。
人生は別れの連続だけれど、だからこそ、
間に合わせたいと思うのです。
その時に――。その言葉を、言いたいのです。
ありがとうと。
そうして、その言葉が届けば、確かに返ってくるのです。
ありがとうと。
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前回、「声のあるゲーム、声のないゲーム(2)」の続きです。
ここまで、RPGに声が吹き込まれることによって、
開発者が得た利点と、ユーザーさんが得た利点を
順番に見てきました。
簡単にまとめると、
開発のメリットは人間ドラマが描けるようになったこと。
ユーザーさんのメリットは、キャラの共有とわかりやすさ。
こんな感じになるでしょうか。
いいことづくしにも見える、ゲームへの「声」の参入。
でも、そんな数々の利点を知りながらも、
やはり、ゲームから失われたものもあるのだ――と、
そう感じる人たちもいるのです。
「イメージが違う」
「声優人気に踊らされている」
「キャラがアニメアニメしていやだ」等々――。
そんな声は、私も耳にすることはありました。
でも、それらは好みの違いということもできます。
しかし、趣味の違いや、気のせいや、
懐古主義などという言葉で片付けてしまうには、
先の声優さんをはじめ、色々な方々が、
漠たる不安を抱えていたりもするのです。
その不安はどこから来るのでしょうか?
もしかして本当に、
声優さんの声がついたことで、何かが失われた、
ということがあるのでしょうか?
もし失われたものがあるとしたら、
一体、何が失われたのでしょうか――?
このシリーズの最後に、この点を考えて、
私なりの答えを出してみたいと思っています。
(5)失ったものを探して……遊び手編
声のあるゲームに抵抗を覚えるのは、おそらく、
ゲームに声がなかった時代を体験している世代ではないか?
そう、私は推理しています。
かくいう私も、はじめてさわったコンシューマーが、
セガさんのセガ・マークIII 。
声がない時代に、子供時代を過ごしたひとりです。
まずは、遊び手のひとりとして、
声のないゲームの時代を振り返ってみようと思います。
声がないゲームを、遊んでいた世代――。
その世代というのは、
とても特別な世代だと私は思っています。
その時代、ゲームというのは本当にまっさらなものでした。
インベーダーゲームで100円玉をつぎ込む若者を、
眉を寄せて批判し、ゲームセンターが不良の巣窟だと、
思い込んでいた、そんな親を持つ世代でもあります。
世に出たばかりの家庭用ゲームです。
大人に叩かれて当然、そんな土壌が各家庭にありました。
大人たちには、まるで把握できていないもの――。
なんだろうと恐れ、排除しようとさえするもの――。
でも、それゆえに家庭用ゲームには、
上の世代の手垢もひとつもついていませんでした。
それは、まるまる、子供である自分達のものだったのです。
今まで存在しなかったもの。
自分達が、世界中で一番はじめに触れていいもの。
そんな遊びが、かつてあったでしょうか?
だから私たちは、みんながみんな、
ゲームというものに耐性がありませんでした。
どんな楽しさをもたらしてくれるものなのか?
そんなこともよくわからないまま、
ただ、初めてづくしの経験に、ドキドキして、ワクワクして、
純粋にゲームを求めていたのです。
いわば、ノーガードで何でも来い!な感じでした。
本当に、当時を振り返ると、
走馬燈のように様々なゲームが心に浮かびます。
「シャーロックホームズ 伯爵令嬢誘拐事件」が、
まさか、あのようなゲームだったとは、
タイトルからはまったく想像出来ませんでしたし、
それでも、「ゲームってこうなんだな!こうなんだな!」
と、泣きながらやった覚えがあります。
ゲームというものの姿はまだまだ朧気で、
その立ち位置も確立されてはいませんでした。
声のないゲームを遊んでいた人々というのは――
ゲームのその誕生に立ち会い、
ゲームする自由を求めて大人たちと戦い、
混沌カオスな数々の珍品迷作を、皿ごと喰らってきた世代です。
ゲームと共に育ってきた世代なのです。
その思いは、格別深いものだと思います。
当時、子供だった人たちにとって、
ゲームは、間違いなく最先端の遊びでした。
だから私の中にも、遊び手として、
声がないゲームを、子供時代に遊んだゲームを、
懐かしむ気持ちがあります。
でもそれは、ドット絵を惜しむ気持ちや、
ムービー演出にちょっとやり過ぎかなと思う気持ちにも似て、
「これは趣味の範囲かな?」「これも進化のひとつの先だし」
と、前向きに考え直せるところでもあるのです。
つまり遊び手である私には、はっきりと、
「声がつくことによって、ゲームからこれが失われた」
と、言い切れるものがないのでした。
では、視点を変えて――。
開発者としてゲームを見てみましょう。
(6)失ったものを探して……作り手編
私がゲーム業界に入ったのは1995年。
その頃、まわりはまだ、声がないゲームだらけです。
当時のゲームは、
現実のどんな娯楽作品と比べても、
描こうとするもののスケールに比べ、
視覚情報や、聴覚情報が絞られているように見えました。
ファンタジー映画のような広がり、
小説のような奥行きがある独自世界を、
凄腕の職人さんが、全部ドット絵で描いている。
それがとにかく凄くて、圧倒されたものでした。
この「世界をドット絵で表現」というのが端的に表すように、
グラフィックに限らず、メッセージや音まわりにも、
様々な制限がありました。
しかし、それらの過酷で複雑な制限が、
開発者たちに、無駄をそぎ落とした機能美を追究させ、
美しくもシンプルな様式美を実現させていたようにも
感じるのです。
あの頃の開発で、私は「引き算の美学」を学びました。
最低限、これだけの素材でイベントが作れる――。
仕掛けが作れる、マップで遊べる。
そういう、ものの基本を叩き込みました。
使い方次第でいかようにも化ける、
そんなシンプルな公式のような概念が、
開発現場の至る所に転がっていたのでした。
僅かなもので最大の効果を――。
華麗に、大胆に――。
そこはまさに、職人の世界です。
でも、その一方で、
娯楽産業の中に地位を確立し始めたゲームが、
同じ子供向きの娯楽の漫画やアニメーションと比べると、
「人間の心情への踏み込みが足りない」と、
いわれたことは多々ありました。
私の場合は、そういった雰囲気を
ゲームをしない女性たちから感じていました。
「本や漫画はバトルがあっても、友情とか感じられるけど、
ゲームは所詮、殺し合いでしょう?」
例えば、こんな意見は、わりと耳にするのです。
当時は女性開発者が珍しかったですし
「ゲーム=男の子文化のもの」という認識が根強く、
女性のゲームに対する理解は、
今ほどおおらかではありませんでした。
なので、この手の意見が出ると、
バトルシステムを搭載したRPGに関わる身としては、
ぐうの音も出ない気もしたものです。
それでも私は、RPGが子供時代の自分にとって、
かけがえのない宝物だったことを、
自分の体験として知っていました。
言葉足らずで多くを語らないRPGは、
文化の違う海外ファンタジー小説を読むのにも似て、
行間を読んでいく楽しさというものがあったのです。
足りない部分を補い、行間を読ませるゲーム。
名もない人々の思いを、様々に思い描くゲーム。
その時、ゲームの主役は間違いなく、世界そのものであり、
そして、その世界を旅する、私たちの心だったと思います。
ゲーム嫌いの女性たちでも、そんな話をすれば、
多少は批判と疑いに満ちた目が和らぐところはありました。
「なんか、すごいね」と、びっくりしてしまう人も、
「あなたの作るもの、見てみたいな」と、
笑ってくれる友だちもいました。
かつての知人友人たちが、子供を育てるお母さんになって、
ゲームに疑いを向けるようになった時――。
「これなら、子供に見せてもいい」ではなく、
「これなら、子供に遊ばせたい!」というものが欲しい。
できれば、この手で作りたい。
ゲーム嫌いな女の子たちの存在は、
そんな新しい思いも育ませてくれたように思います。
話を、声のあるゲーム、声のないゲームに、
戻しまして……。
そうした、経緯があるからかもしれませんが、
開発者としての私は、なんとなく勘づいていることは、
あるにはあるのです。
声によって、ゲームから「何」が失われたのか――。
その答えについて。
もし、声がつくことで、失ったものがあるとしたら。
それは、「開発側の姿勢」である、と私は思っています。
「失われた姿勢」があり、代わりに「得た姿勢」がある。
得た姿勢、それは――
「世界が主役ではなくていいんだ」という姿勢、
多くのアニメや漫画と同じように、
「キャラで押していくんだ」という姿勢です。
無論、これらの姿勢は間違いではありません。
新たな価値観であり、新たな可能性であり、新たな挑戦です。
しかし、新たに獲得したこれらの姿勢は、
以前の開発にあった姿勢とは相反するものです。
主人公たちを通じて、ユーザーさんの心が旅をしていく。
そのユーザーさんの心の中に物語を描こうとしていた、
古き良きRPGの姿勢――。
キャラ押しのものの考え方に、
特定のキャラの性格を前面に押し出していくものの中に、
そういった繊細なものは、宿りにくいのです。
そぎ落とされた美学を持つ大量のNPCメッセージや、
少ない文字数で紡いできた行間の空いたイベント。
それらの限られた文字情報を、
ユーザーさんの心がくぐっていく時――、
そこに、粉雪のように微かに、なにかが降り積もる。
そして、降り積もったなにかの断片は、
ユーザーさんの想像力を借りて、自由に羽ばたき、
やがて遊び手独自の、世界と物語を完成させる――。
そんなものの作り方と、
キャラ押しのものの作り方とは、かなり違うのです。
繰り返しますが、今の流れに乗って、
ゲームをキャラ押しで作っていこう!、というのは、
構わないことだと思います。
声優さん人気も後を押してくれることでしょう。
でも、世界を見せるということを、
そこをユーザーさんの心に旅してもらうのだということを、
そして、そういうものを作ろうという姿勢を、
誰も彼もが、根こそぎ捨ててはならないと思うのです。
でなければ、ゲームはその地位を、
アニメや漫画や小説など、
物語やキャラを見せることに長けた他の娯楽産業に、
簡単に奪われていくでしょう。
そうなれば開発現場では、
「世界を描き、体感させる」、その結果、
「ユーザーの心に、それぞれの物語を描かせる」などの
アイデアを出すことなど、不要になっていくのです。
そして、ここが一番肝心なのですが――。
もし、ゲームの主役を、ユーザーさんの心ではなく、
キャラ押しできるほどに完成された架空のキャラである、
と決めうちするのならば、それはもはや、
アニメや漫画や小説で、充分に体験できるものなのです。
ゲームにしなければ体験できない――。
ゲームだから表現できる――。
そんなものではなくて、
アニメの一部分をゲームにしました、
漫画の一部分をゲームにしました、
小説の一部分をゲームにしました、
になってしまうのです。
あんなに広がりのあったRPGの無限の大地が、
他の作品の中の、ほんの一部分になってしまう。
そんなことが、現実になってしまうかもしれないのです。
声ありゲームからの、キャラ押しRPGへの転換は、
RPGシナリオライター志願者の、つまづきの元にもなっています。
RPGシナリオに携わる者が持つべき第一の姿勢は、
「自分の産んだキャラの物語を、開発に作って貰うんだ!」
ではなく、どちらかと言えば、
「ユーザーさんの物語を、紡げる世界を準備するぞ!」でした。
もしも、自分の産んだキャラや世界を世に出したい!、
というのなら、ゲーム性を伴わないですむ、
漫画や小説を手がける方が、ずっと早いのです。
ユーザーさんが待っているのは、
「そのゲームならではの体験」であり、それは、
「他の作品で表現できたことの再現のみ」ではないのです。
ゲーム業界を志す一番の動機は、
「面白いゲームが作りたい!」であってほしいと思います。
本音がどうあれ、そういう気持ちも育ててほしいのです。
ゲームは、ユーザーさんが主役。
そのために我々開発は総力をあげて、
冒険できる舞台、遊べる世界を用意する。
いつの間にか、そんな心意気や概念が、
開発から失われつつあるのかもしれない。
それが、私が危惧している、
「声がついたことで、ゲームから失われつつあるもの」
の正体なのです。
子供時代、他の誰でもなく、
自分自身を主役として遊ばせてくれた、
そんなゲームの感動は、
いつまでも忘れられないものだと思います。
そして、そんな子供時代を経て、
声がないゲームの開発にぎりぎり飛び込めた私だから、
より一層、感じてしまうのかもしれませんが、
キャラ押し一色、キャラ萌え一色に染まっては、
かつてあったRPGの良さは、
かなりの部分が消えてしまうのではという不安が、
ぬぐえないでいます。
(7)さいごに、古き良きを知る人たちへ
「ゲーム開発者として、
ゲームに声優の声があるってどうなんですか?」
今度、あの声優さんに出会ったら、
もっとはっきりと答えられます。
想像力が奪われたと思う人もいるが、
キャラのイメージが固定化されて、
大勢の人とすぐに一緒になって、
一層細かい想像ができるようになってきた。
それは、新しい楽しみ方だと思う。
そういう良さもあるので、
ユーザーがなくしたものは、おそらくまだない。
シナリオライターとして言わせてもらうならば、
表現の自由を手に入れ、
人間ドラマに踏み込めるようになった。
でも、開発の一部は、もしかしたら
ユーザー主役&世界主役のゲームの作り方を、
古いものとして封印しつつあるかもしれない。
そして、そうした流れが強くなれば、
RPGはキャラありきキャラ押しのものだけになって、
漫画やアニメや小説にさらに近づき、
「自分を主役として、自分の物語を冒険するもの」では、
なくなってしまう可能性がある。
開発の考え方によっては、
将来、大きなものが失われる可能性はある――。
そうした未来への予感が、漠たる不安となって、
「ゲームに声がつくのはどうなのだろう?」という、
言葉になって、出てきてしまうのではないでしょうか?
これはあくまで私の考え方ではありますが、
「もしかしたら、これがひとつの答えになるかも?」、
と思っております。
私は、世界が主役だった頃のRPGを忘れたくはありません。
自分が主役となって、旅した世界を捨てたくはありません。
振り子が揺れるように、人間の価値というのは、
同じところにとどまり続けるものではありません。
人間は、慣れて、飽き、そして、変化と刺激を求めるからです。
ですから、たとえ今、流行ではないとしても、
世界が主役で、ユーザーさんが主役で――、
そんなRPGの作り方が、その姿勢や技術が、
いつの日にかまた、必要になると信じています。
ですから、
RPGシナリオを書きたいと目指す人には、
キャラは弱くても、世界を中心に据え、
ユーザーの心の中に物語を構築していくやり方が
かつてはあったことを、
忘れずにいてほしいと思っています。
その時代を知ってるひとはそれぞれに奮闘し、
古き良きRPGの火を絶やすな、ということ――。
それが、「声があるのってどうなのかな?」という
不安の先にある、「声のないゲーム」を知る者としての、
ひとつの役目ではないかと思うのです。
読んでくださって、ありがとうございました。
それではまた、いつか。
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前回、「声のあるゲーム、声のないゲーム(1)」の続きです。
(3)声によってRPGが得たもの
時が移ろい、解像度や容量の問題が改善され、
グラフィックも2Dのドット絵から、
3Dのポリゴンやイラストそのままのキャラ絵へと
劇的に変わっていきました。
そしてそこに、部分的とはいえ、
声優さんの声さえも、入ってくるようになりました。
では、声がつくようになって、
RPGのメッセージはどう変わったのでしょうか?
これは大きく、ふたつあると思っています。
1、キャラ情報の補強
まず、年齢や性別は、
声優さんが確実に表現してくれるようになりました。
年老いた声というのを演じていただけるため、
「~じゃ」と、語尾につける必要がなくなったのです。
女性の声、男性の声も、聞けばすぐにわかるので、
「断定口調で男性のように喋る女性」や、
「ですます調で、女性のように優しく喋る男性」が
よりわかりやすく表現できるようになりました。
声がなかった頃は、台詞は記号的でした。
その台詞がメッセージウィンドウに表示されてすぐ、
老人だ、女性だ、商人だ、とわかってしまう
そんな素直さが好まれていました。
そのため、
見た目で伝わる素直な部分を裏切るようなキャラ、
見た目は少年で喋り方も少年っぽいけど、実は女性、
というようなキャラは、主要人物でしか許されなかったのです。
しかし、声があれば、そうした個性的なキャラ立ても、
耳で聞く情報が足される分、ずっとわかりやすくなります。
そのため、主要キャラだけではなく、
サブキャラや、それまで没個性に徹していた町の人にも、
そうした声によるキャラ立ての恩恵が波及するようになりました。
声があることによって、
描き出せるキャラクターの幅が増え、
ゲーム世界の住人たちが、一層表情豊かになったのです。
2、感情の搭載
そして、もうひとつが凄いのですが……。
声がつくことで、
格段に自由になったものがあるのです。
なんだかおわかりでしょうか?
それは、感情です――。
「ありがとう」
例えば、このたった五文字の台詞でも、
「泣きながら」「怒りながら」「はにかみながら」と、
声で感情を色分けしていくことができます。
声がなかった時代は、
そうした「文字通りの意味以上のニュアンスを含む台詞」
は、三点リーダー「……」や、ダッシュ「――」、
あるいは句読点の助けを借りつつ、
その台詞に持っていくまでのイベントシーンを、
非情に丁寧に作り込まねばなりませんでした。
そのシーンの、その台詞を、その感情で、
確実に脳内再生させる――。
それを、声の助けがない中で、
読む文字だけでやってみせる――。
これは、文字数や使える漢字も充分ではない
当時の開発環境では、とても難易度が高いことで、
たびたび挑めることではなかったのです。
そのため、やると決めたら、
ユーザーさんが肝心のシーンでその意味を
取り違えてしまわないように、
かなり気を遣って、流れを作ったものでした。
私の場合は、聖剣伝説レジェンドオブマナの
宝石泥棒編、ある人物の最後の台詞です。
ここでは、音楽の力がとても大きかったです。
ですから、声優さんの声という表現が加わった時、
それはものすごい変化だったのでした。
声優さんの声がついたその瞬間から、
RPGの台詞は、生まれ変わりました。
様々な制限の元、工夫を重ねて研ぎ澄まされてきた、
デフォルメされた記号だらけの文章ではなく、
人間の声がつく、生々しいものになったのです。
デフォルメ台詞にあった、そぎ落とされた美学。
没個性の潔さ。
それらと、声のある台詞とは明らかに違います。
これは革命と言ってもいいくらいの衝撃で、
実際、開発現場でも、この変化に気づき、
「もう、自分達の手では台詞を書ききれない」
と、思った方も多かったのです。
言葉が感情を裏切っても構わない――。
これは、開発を戸惑わせる、
高スペックのものではありましたが、
声が与えてくれた、とても大きな自由でした。
これにより、台詞の自由度が格段に上がり、
RPGの中の台詞は、ドラマや映画アニメーションの表現に、
一段と近付くこととなったのでした。
(4)ユーザーさんが得たもの
「開発側が得た、声があるメリット」をあげてきましたが、
ここでは、「ユーザーさんから見た、声があるメリット」を
整理したいと思います。
RPGにとって、声優さんの声がつく利点は沢山あるので、
大きなポイントだけ抑えておきますね。
1、キャラの共有
まず、ひとつめは、キャラの共有。
やはり一番の良さは、これではないかと思います。
声優さんの声がつくことで、そのゲームを遊ぶみんなが、
そのキャラを、より明確に共有できるようになりました。
「声がつくことで、想像力が奪われたのではないか?」
という方もおられるのですが、声がついたからこそ、
休日をどう過ごしてるか?とか、
宿屋ではこんな会話をしているのかな?とか、
より細かい部分に想像力が働くようになったと思います。
そのキャラが例えば、
「クラスにいたらこんな感じかな?」というところまで、
想像しやすくなったのではないでしょうか?
声優さんの声質、喋り方のテンポ、感情のノリ、
このあたりを掴んでしまうと、
そのキャラを頭の中で動かすことが容易になります。
これは、とてもいいものだと思うのです。
「一本道シナリオとフリーシナリオについて」
でも少し触れたのですが、
様々なことに心や気力を奪われる、忙しい現代人にとっては、
遊んだ人それぞれに体験が違ってくるフリーシナリオよりも、
一回遊べば、みんなと体験を共有できる、
一本道シナリオを好む傾向もあります。
そういう視点で見ると、行間が大きいシナリオよりも、
声でキャラクターがばっちり固定化されるものの方が、
友だち同士でも話が通じやすく、盛り上がりやすい、
そういった利点があるのです。
2、感情がわかりやすい
次に、ふたつめ。
キャラの感情がわかりやすい、というのがあります。
聴覚情報が増えるということは、
それだけで、わかりやすさが倍増するものです。
例えば、「顔で笑って心で泣いてのシーン」。
台詞だけでやる場合は、
まずはさっぱりと、「あばよ!」なんて書いておき、
その後ひとりきりになってからに、
「ふう……我ながら、素直にゃなれんね」
みたいな、フォロー台詞を入れたりします。
でも、こういう「言葉が感情を裏切るシーン」は、
どうやっても、「あっさり、笑って別れただけ」であり、
「心で泣いて」みたいな複雑な心境を、
読み拾えない人たちが出てきてしまうものなのです。
なので、ちょっとやり過ぎくらいに、
「本当は寂しい」とか「辛いんだ」とかいう気持ちを
書かなくちゃならないこともあるのですが、
ここに声が入れば、声として感情が表されるため、
読み間違いは、ほぼ、なくなります。
ひとの抱く感情というのは、たいへん複雑です。
そこは、なかなか素直な言葉では現ません。
好きな人に、好きって伝えるだけでは、
少女漫画が盛り上がらないように、
好きなのだけれども、それを言えないもどかしさ、
意地悪したり、素っ気なくしたりしてしまう、
そんな、心とは裏腹な態度が、人間です。
繊細な心の動きというのは、
読む言葉だけで表現してゆくよりも、
耳で聞く声でも表現していく方が、とてもわかりやすいのです。
3、学習情報のハードルが下がる
さいご、みっつめは、お勉強用語の覚えやすさです。
ファンタジー要素の強いゲームだと、
その世界を、他にはない独特のものに仕上げるため、
様々な専門用語が出てくるものです。
特殊な名前や言葉使いなどは魅力でもあるのですが、
正直な話、カタカナの長い名称や、難しい漢字が多いと、
読めなくなってきませんか?
少し話は逸れますが……。
昔、アニメ雑誌に連載されていた、
首藤剛志氏の、
「永遠のフィレーナ」という小説がありました。
イラストは、高田明美さんでした。
「フィレーナ」というのは主人公の名前です。
ところが、この主人公の名前を、
間違って覚えていた方々が結構いらっしゃいました。
主人公の名前なんてよく目にするものを、
間違うはずはないと思われるかもしれませんが、
そうでもありません。
私も、「フィレーナ」と「フィナーレ」とが、
よくこんがらがっていたものでした。
しかし、ここに声優さんの声があると、
話は別です。
耳で聞いた言葉を、間違えて覚えることは、
まずありません。
声優さんの聞きやすい声のガイドがあれば、
目で読んで、耳で聞いて覚えることが出来るので、
難しい専門用語も、格段にわかりやすくなるのです。
今回は、声があるゲームの利点を、
開発者側と、ユーザーさん側とでそれぞれ考えてみました。
次回、最終回では、これらの利点を含めても、
声があることで、失われたものがあるのかどうか?
――そこを、考えていきたいと思っています。
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以前、ある声優さんから
「ゲーム開発者として、
ゲームに声優の声があるってどうなんですか?」
と尋ねられたことがありました。
「声があることで、イメージがそこで固定されるというか。
ユーザーさんの想像力を削ってしまってるんじゃないかと。
そんな気がするんですよ」
ゲームに声がなかった時代――。
その時代をユーザーとして遊んでいた方の、
偽らざるご意見でした。
声があるゲームと、声がないゲームについて。
この件について、三回に分けてさせて、
お話ししようと思っています。
※この記事は、
ツイキャスで放送したもの(2012年2月29日放送分)を
ベースに文章化したものになります。
声で聞く方がよい方は、こちらをご利用下さい。
・2月のツイキャス(前編)
・2月のツイキャス(後編)
声優さんの声がない時代のゲームというのは、
音声以外の点でも、様々な部分で、
今よりもシンプルな表現をしていました。
グラフィックも2Dのドット絵でしたし、
カメラもそんなに複雑ではなかったのです。
そんな中で、
キャラの絵はドット絵として表現できるようにと、
デフォルメされていたわけですが、
そうしたデフォルメ技術は、グラフィックだけでなく、
実は、台詞にも当てはまっていました。
台詞のデフォルメです。
表示限界があったグラフィックはともかく、
「台詞のデフォルメ」と言われても、
あまりピンと来ない方も多いと思います。
特に、声があるゲームから入られた方は
わかりにくいかも知れませんので、
少し説明をしていきますね。
台詞のデフォルメを考える前に、
まず、キャラクターたちの話す言葉=メッセージ、
にまつわる、当時のゲーム開発の制限について、
話していきます。
(1)メッセージを取り巻くみっつの限界
台詞には、表示限界がある――。
これは、当時のプランナーを悩ませ、工夫を促すものでした。
まるで、色数の限界やドットのにじみを逆手にとって、
キャラ絵や背景マップを、より魅力的にしようという、
グラフィックさんのように、
当時のプランナーさんやプログラマーさんたちも、
台詞を含む、「文字の表示限界」に悩みつつ、
様々な工夫を凝らしていたのです。
まずはその悩み――表示限界について説明しましょう。
おおきくわけて、これは三つの問題でした。
1、大きさの限界
まずひとつめの限界。
ゲーム画面でその文章を表示してみて、
読み取れる文字の大きさというのがあります。
これは当然今より、昔の方がだいぶ厳しいものでした。
もし機会があれば、過去のゲームに触れて、
そのメッセージの文字を見てみてください。
文字がかなり潰れて見えることだと思います。
これでも当時は綺麗な方だったのです。
つまり、ひとつめは解像度の問題であり、
言い換えると、文字の大きさの問題でした。
2、量の限界
次に、ふたつめの限界。
こちらはさっきの、解像度=文字の大きさとは違い、
少し複雑な事情があります。
ゲーム画面に対し、
どこまでメッセージウィンドウを大きくしていいか?
ということになるのですが……。
ここから、RPG開発者特有の概念が
あれこれ出てきますので、
ちょっとゆっくりめに解説していきますね。
メッセージウィンドウとは主に、
キャラクターの台詞を表示する領域で、
作品ごとに、特別なデザインや色合いがありました。
例えば、昔のFFシリーズは深いブルーでしたし、
聖剣シリーズは森を思わせるグリーンでしたね。
当時は、文字を沢山読んで情報を得るという、
ユーザーさんに最も近いインターフェースだった
メッセージウィンドウの色合いや形が、
そのシリーズを現す、
アイコンのひとつでもあったのです。
このメッセージウィンドウの大きさについては、
実は、キャラや背景の表示の仕方と、
深い関係があります。
まず、わかりやすくするため、
現在のRPGで考えてみます。
3Dモデルでカメラワークがつくようなゲームの場合、
キャラのアップというのができるようになります。
そうなってくると重要なイベントでは、
画面全体に、主人公の顔が大きく表示されることがあるし、
普段は、街に立ってる主人公の全身が
映っていたりします。
こうなると、メッセージウィンドウは、アップとひきとで、
別々なサイズのウィンドウを持つのではなく、
どちらの表示スタイルでも、
安定して使えるサイズに落ち着きます。
大体は、画面下で、文章は、
2行~3行くらいとなっていると思います。
これが、2キャラ以上での会話になると、
画面上と画面下でウィンドウを出して、
やりとりする場合もありますが、
ユーザーさんに視線移動の負担を与えるので、
他に利点がないと、積極採用はされません。
「顔のアップ」と「引きの全身」のように、
現在のゲーム映像には多用な表現方法があります。
そんな中で、キャラクターの台詞というのは、
映像と同じく、目を使って認知していくものです。
つまり、目から入る、視覚情報です。
映像面の表現が多用になってきたため、
文字を追っていくメッセージウィンドウは固定してしまい、
ユーザーさんの目への負担を軽減したい、
となってくるわけです。
こういった考えがあるので、
比較的若いゲーマーの方、たとえば初めて触れたのが
「声あり、ムービー当たり前のゲームでした」という方は、
この「画面下メッセージウィンドウ」に、
慣れ親しんでいると思います。
一方、声がなかった時代のゲームを考えてみると、
キャラも背景もドット絵で表現されていました。
そして、当時遊んでいた方は思い出して欲しいのですが、
TV画面に映るゲームの画面というのを、
大きく、「何か」が占めていました。
それは、なんだったでしょうか?
正解は、床――。
「そんな馬鹿な!」と思う若いユーザーさんは、
昔のゲーム画面を、ぜひ調べてみてください。
床面積がものすごく広くとってあって
真上から見下ろしたかのようなマップも多いです。
奥行きもさほど感じられず、
「いたるところに町人が立ってるな」という、
印象も受けると思います。
これは、いわゆる、
「空が見えない世界」といわれるもので、
「床=歩ける場所=ユーザーさんが触れられる場所」が、
多いという魅力はあるものの、
グラフィッカーをはじめ開発者は、
「この世界の空を見せたい!」という相反する思いを、
心のどこかに持っていたものでした。
キャラ絵が3Dでもなく、イラストでもなかった当時、
背景となる画面の多くの面積は、
実は、「床」が占めていました。
そんな広大な大地の中、佇むキャラというのは、
とても小さく、慎ましく見えたものです。
声がなかったゲームのキャラのサイズ感というのは、
世界に溶け込む、「風景と一体となったもの」
だったのでした。
今のゲームと比較すれば、だいぶ小さなキャラクターたち。
そんな小さな彼らが言葉を発する場合、
その台詞を表示するメッセージウィンドウは、
どこに、どのくらいの大きさで表示するのがいいでしょう?
もちろん画面下に、という場合もありましたが、
漫画の「ふきだし」のようになっている場合も多かったです。
これは、どういうことでしょうか?
ここで、ふきだし式が採用されやすかった理由を、
少し考えてみてください。
漫画のふきだしにあって、画面下固定ウィンドウにないもの。
それがヒントになります。
正解は、ふきだしの尾(ひげ)――。
床が大きく背景をしめるゲーム画面では、
その画面内に複数のキャラが立っている可能性があります。
そのため、「この台詞は誰が喋っているのか?」を、
明確にする必要があったのです。
特に2Dの背景というのは、平面的な絵なので、
「マップの端=それ以上、マップ絵は描いてないよ」、
という部分が存在します。
3Dで作ってあるゲームだと、
ここをうまく誤魔化して遠景として見せたりするのですが、
2Dの場合、ユーザーさんに歩ける場所をめいっぱい取って、
「いっぱい冒険して、調べまくって貰おう!」という
サービス精神が企画側にはあります。
時に、グラフィックさんが想定していないところまで、
歩かせてしまうプランナーさんもいました。
私も、ユーザーさんの歩ける場所をギリギリ広げようと、
無茶なID張りをする方でした。
そのため、マップとして描かれている絵の
ギリギリ端っこまで歩けたりするのです。
となると、常に画面の真ん中に主人公がいる、
とも、言い切れなくなってきます。
マップの端っこ、描かれている限界というのが、
見えてしまうからです。
こんな風に、主人公の居場所もわかりにくくなる場合は、
なおさら、ふきだし式のメッセージウィンドウが
重宝するのです。
しかし、ふきだしメッセージウィンドウは、
キャラ絵とのバランスもあって、画面下ウィンドウよりも、
表示できる文字数がかなり少なくなってしまいます。
つまり、ふたつめはメッセージウィンドウの問題であり、
言い換えると、文字の量の問題です。
3、漢字の限界
そして、最後、みっつめの限界。
漢字です。
そこをお話しする前に、おさらいすると、
ひとつめの問題は文字の大きさで、
ふたつめの問題は文字の量でした。
つまり……、
今のゲームと比べ、声がなかった時代のゲームは
表示できる文章量が少なかったのです。
そこで頼りになるのが漢字なのですが……。
この漢字も、ドラクエシリーズの初期から比べれば
だいぶ進歩したといえ、容量による制限がありました。
私が、聖剣伝説レジェンドオブマナ(1999年発売)で、
使用漢字の登録管理を担当していた頃、
プログラマーさんとの相談で、
「ここまでしか入らない!」という漢字枠がありましたが、
これは、想像していたより少ないものでした。
技名の担当者や、アイテム名の担当者から、
「この漢字を入れてください」と次々とオーダーが飛んで来て、
それを全部聞いていたら、枠などあっという間に
使い切ってしまいます。
もちろん、私としては全部を登録したいのです。
何せ、ものの名前というのは、その作品にとって、
世界観を醸しだしてくれる、大切なキーワードです。
名前というのは、
その世界で、アイテムを拾ったり、技を覚えたり、
誰かに会ったり、どこか新しい場所に着くたび、
呼吸するように胸に入ってくるものです。
そして、それらは、
ユーザーさんの胸に降り積もって、
見たこともない新しい世界を生み出してくれます。
名前とは、魔法の一種です。
そんなわけで、
どんなオーダーも無碍にしたくないのですが、
現実は厳しく、よく使う漢字から、または、
あると効果的な漢字から、優先順位を決めていき、
採用、不採用を決めていきました。
つまり、文章を短くまとめられる漢字についても、
容量の関係で、すべてが保証されている、
というわけではなかったのでした。
(2)限界が産んだ台詞の美学
ひとつめ、解像度から来る文字の大きさの制限。
ふたつめ、メッセージウィンドウから来る文字数の制限。
そしてみっつめ、使える漢字の制限。
これによって、声のなかった時代のゲームでは、
あくまで今のゲームと比較してのことではありますが、
沢山の台詞を喋らせる環境ではなかったことが、
うかがえるかと思います。
今のゲームよりも、ずっと少ない言葉で、
キャラクターの心情を伝えなければならない。
その上、ゲームを進めるのに必要な情報も、
そこに混ぜ込んで、ユーザーさんに伝えなければならない。
こうなってくると、当然、
当時のイベントプランナーの書き下ろす台詞も、
今とはまったく違ったものになってくるのです。
例えば、おじいちゃんやおばあちゃん。
老人キャラの語尾は、「~じゃ」などと書くものでした。
例えば、女性キャラ。
主要キャラじゃない場合の語尾は、「~だわ」を
意識して使うことが多かったです。
例えば、商人。
「もうかりまっか?」というような関西弁を使わせて、
ささっとキャラ立てを済ませる場合もありました。
キャラ絵も今のゲームのものと比べて小さく、
台詞の表示されるスペースも今よりは小さなメッセージウィンドウ。
使える漢字にも限りがある。
そして台詞に声優さんの声がつくこともなくて、
台詞はすべて、目で読むだけ――。
そんな各種制限がある中では、
「このキャラはご老人です」「女性です」「商人です」と、
第一声ではっきりわかってしまう、
「素直さ」が求められていたのです。
年齢も、性別も、職業も――。
その表現の仕方は、
記号化されるのが当たり前だったのでした。
これが、「台詞のデフォルメ」です。
いかに少ない言葉で、そのシーンをイメージさせるかが、
RPGにおける台詞の美学であり、
イベントプランナーの腕の見せ所でした。
少し脱線するのですが、この、
「台詞がデフォルメされる」という状況が、
当時の開発現場に、
シナリオライターがいなかった理由でもあります。
この「台詞のデフォルメ」は、
RPGシナリオ独特の様式美で、ドラマやアニメや小説では、
これがベースとなる事は、まずありません。
この頃、まだRPGの主役は世界だったのです。
異論はあると思いますが、キャラに感情移入していたとはいえ、
「あの特別な空気をまとった、美しい幻想世界を歩きたい」、
という思いが、「キャラの、○○さんに逢いたい」という思いを、
大きく上回っていたと思います。
無名の、その他大勢の民衆を、
ユーザーが操作しないノンプレイヤーキャラクター=NPC
として配置し、世界の風景の一部として描き出す。
そんな、世界が主役ともいえるRPGにとって、
町人NPCの台詞とは、
老人である、女性である、商人であるという以外は、
没個性でいいと割り切ってしまうものでした。
NPCの台詞だけ切り出してしまえば、
「なんて無個性で平凡なんだろう?」と思われてしまうし、
しかも、それが大量にある……。
これは、他の文字で訴えるジャンルでは、
なかなかないことだと思います。
この大量のNPCの台詞の本当の意味は、
やはりゲームの開発者にしかわかりません。
そうした、一見して無味乾燥なものが、
降り積もって、世界を描き出し、
その世界を守らんとする、
主人公たちの物語を支えているのです。
こういうことは、
グラフィックさんが描いたマップを歩けるようにし、
グラフィックさんが作ったキャラを動き回らせ、
イベントを自らの手で打ち込んでいく、
イベントプランナーさんやスクリプターさんが、
一番よく、理解しています。
だから、町の人の台詞は、
膨大であっても手が抜けないものでした。
そこを丁寧に作れば世界観が醸し出せると、
みんなが知っていたわけですから、
担当者は、シンプルな中にも味わいを持たせることを、
必死に工夫していたものでした。
そして、これはとても大切なことですが、
無個性な町人メッセージを大量に書くという仕事は、
イベント業務に関わるプランナーにとっては、
世界を創造していくという、楽しい業務だったのです。
当時のRPGでは、
メッセージ回りの限界があったことも関係して、
文学的、小説的な表現方法が、
RPGとしては、必ずしもベストではありませんでした。
アドベンチャーゲームなどでは期待される、
読み応えのある文章力や技術が、
RPGでは、特には必要なかったのです。
そのため、
この頃はまだ、シナリオライターという役職も、
明確に設けられなかったのでした。
今回は、メッセージ回りの様々な制限の話から、
台詞のデフォルメと、そこに宿る美学に触れました。
次回は、「声によってゲームが得たもの」について、
お話しさせていただこうと思います。
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