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2012年2月19日 (日)

仕上げのとき

子供ができてから、残された時間を考えるようになった。

自分が子どもの頃は、どこか、
「死」というものはファンタジーだった。

私が、核家族で育ってきたこともあるのかもしれない。
祖父母がいるご家庭は、また違うものだろうと思う。

ついに、言葉が出なくなってきた。
ついに、足腰が立たなくなってきた。

歳を重ねていくこと。老いていくこと。
それは一日一日、何かを失っていくことにも思える。

そうしたものを家族の風景として、私は見たことがない。
だから、その先にある「死」というものが、まったく見えなかった。

今、少しずつ体力が落ちている自分と、
急速に老け込んだ父や母を見るにつけ、
大人はずっと大人のままだと思い込んでいた時間が、
如何に長かったかと思い知らされる。

たぶん私は、少し、
時というものに、無防備だったのだと思う。


時が経つのが楽しいのは、一体、いつまでなのだろうか?


そんなふうに時の加速に怯える私なのに、
一方で、我が子の成長には眼を細める。

もう、ここまで歩ける。
もう、こんなこともわかる。

一日一日が、新しいものを獲得する日々だ。

やがて去っていく私たちなのに、
生まれ来た我が子の成長は嬉しい。

同じ「時」が、奪いもし、与えもする。

奪われる時と、与えられる時。
正反対の時が、家族の枠で重なり、
ゆっくりと通う思いが生まれる。

去る者から、生まれ来た者への思い。
そこには裏心のない、純粋な愛情がある。

誰かの喜びを、自分の喜びとして感じる。
そんな心を、ゆっくりと育てていく。

時は私たちから、愛しいものたちを奪う。
人が生きられる時間というのに限りがある以上、
それは避けられない。

しかし若者や幼子を見る時。
そこに未来が見える。

彼、彼女らがやがて立ち向かう壁や、理不尽な仕打ち。
そこで手に入れる友情や、誇りある仕事や、大切な家族。

去っていく私たちは、そのすべてを想像できる。
自分の人生を通じて、こうであろうか、ああであろうかと、
思い描くことが出来る。


たぶん、これは、仕上げだ。


若い命を思う時、去っていく者たちは、
ゆっくりと自分の人生を振り返るのだろう。

過ぎ去った日々を思い、残された時間に立ち向かう。
次の若い命たちに、仕事を、家を、知恵を、思いを託すために。
それが、生きている者の勤めであると覚悟して。

未来を見つめ、過去を思う。
命を愛して、死を悟る。
我が子のために、自分を生きる。

思いはめぐる。
けれども、囚われはしない。

たとえ、この先、
誰かとの別れに心囚われる時があっても、
そこをくぐり、穏やかな気持ちで、この仕上げに望みたい。

この仕上げを終えて、
やっと私は、自分自身になれる気がする。

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