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2012年2月22日 (水)

シスタークエスト3公式サイトオープン!

私、生田美和がシナリオを担当させていただきました、
「シスタークエスト3~黄金の大地と東の勇者~」の
公式サイトがオープンしました!

こちらが、
シスタークエスト3~黄金の大地と東の勇者~公式サイトです。
ストーリーやキャラクターの紹介があります。


さっそく、試打会へ行ってきました!

20120222a

入り口から、燃え上がる炎に立つ、凛々しいシフォンがお出迎えです。

20120222b

久しぶりのスロットは緊張~。
今回の台は、キラキラキュンキュンしていて、
なにか演出があるたびに、ドキッとします。

20120222c_2

右下手前から、シフォン、ステラ。
左上が今回のヒロインたち、アゲハ、タテハです。

四人娘たちは、みんな元気いっぱいでした!

「シスタークエスト3~東の勇者と黄金の大地~」は、
2012年3月、稼働予定です。
お楽しみに!

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2012年2月20日 (月)

それが直角な理由

我が子の寝相は特徴的だ。
布団に寝せても、ベッドに寝せても、すぐ直角になる。

図でいうと、こう。

┌─┐
│○│
│△│
│Ⅱ│
└─┘
(正しい寝姿)

┌─┐
│  │
│○⊿= ← あんよ
│  │
└─┘
(直角な寝姿)


こんな感じ。わかるかなあ?

こんな不自由そうな寝方、主人も、もちろん私もしたことがない。

それで実家に帰るたびに、
「お孫ちゃんは、どうしてこんな窮屈な寝方するのかしら?」
と話題になっていたのだが、
この前実家に帰った時、私の両親に聞いてみた。


  生田
  「この子、寝る時の格好、
   布団に直角になっちゃうのって、
   誰に似たんだろうねえ?」

  父
  「僕、子どもの頃、直角に寝てたよ」

  生田
  (犯人は、おまえか……!

意外や意外。
父の自白で、ここ数年の謎があっけなく解けてしまった。

結構、ヘンなものでも遺伝していくんだなあ。

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2012年2月19日 (日)

仕上げのとき

子供ができてから、残された時間を考えるようになった。

自分が子どもの頃は、どこか、
「死」というものはファンタジーだった。

私が、核家族で育ってきたこともあるのかもしれない。
祖父母がいるご家庭は、また違うものだろうと思う。

ついに、言葉が出なくなってきた。
ついに、足腰が立たなくなってきた。

歳を重ねていくこと。老いていくこと。
それは一日一日、何かを失っていくことにも思える。

そうしたものを家族の風景として、私は見たことがない。
だから、その先にある「死」というものが、まったく見えなかった。

今、少しずつ体力が落ちている自分と、
急速に老け込んだ父や母を見るにつけ、
大人はずっと大人のままだと思い込んでいた時間が、
如何に長かったかと思い知らされる。

たぶん私は、少し、
時というものに、無防備だったのだと思う。


時が経つのが楽しいのは、一体、いつまでなのだろうか?


そんなふうに時の加速に怯える私なのに、
一方で、我が子の成長には眼を細める。

もう、ここまで歩ける。
もう、こんなこともわかる。

一日一日が、新しいものを獲得する日々だ。

やがて去っていく私たちなのに、
生まれ来た我が子の成長は嬉しい。

同じ「時」が、奪いもし、与えもする。

奪われる時と、与えられる時。
正反対の時が、家族の枠で重なり、
ゆっくりと通う思いが生まれる。

去る者から、生まれ来た者への思い。
そこには裏心のない、純粋な愛情がある。

誰かの喜びを、自分の喜びとして感じる。
そんな心を、ゆっくりと育てていく。

時は私たちから、愛しいものたちを奪う。
人が生きられる時間というのに限りがある以上、
それは避けられない。

しかし若者や幼子を見る時。
そこに未来が見える。

彼、彼女らがやがて立ち向かう壁や、理不尽な仕打ち。
そこで手に入れる友情や、誇りある仕事や、大切な家族。

去っていく私たちは、そのすべてを想像できる。
自分の人生を通じて、こうであろうか、ああであろうかと、
思い描くことが出来る。


たぶん、これは、仕上げだ。


若い命を思う時、去っていく者たちは、
ゆっくりと自分の人生を振り返るのだろう。

過ぎ去った日々を思い、残された時間に立ち向かう。
次の若い命たちに、仕事を、家を、知恵を、思いを託すために。
それが、生きている者の勤めであると覚悟して。

未来を見つめ、過去を思う。
命を愛して、死を悟る。
我が子のために、自分を生きる。

思いはめぐる。
けれども、囚われはしない。

たとえ、この先、
誰かとの別れに心囚われる時があっても、
そこをくぐり、穏やかな気持ちで、この仕上げに望みたい。

この仕上げを終えて、
やっと私は、自分自身になれる気がする。

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2012年2月18日 (土)

な~にいってんだか♪

10年以上前、
吉岡秀隆さんが出演されている、果実酒のCMがあった。

それは一連のシリーズもののCMで、
地方を気ままに旅してる彼と、それを待っている彼女の物語。

はじめの映像は、自然に恵まれた風景。
そこで、地元の人と果実をもいでる爽やかな彼。

その映像の上に、彼氏の柔らかい声がゆったりと流れてくる。
内容は、旅先から彼女に宛てた手紙らしい。
地方での暮らしのことなど、軽く触れられている。

そして最後は決まって――。

  「君に似たお酒です」

彼氏の声がそうつぶやいたところで、映像は切り替わる。

そこは、都会のマンションの一室、陽の当たる部屋。
グラスを一人傾けてる、彼女が映る。

  「な~にいってんだか」

彼女は、ふふっと笑う。
たぶん彼が旅先から贈ってくれたお酒を飲みながら。


ちょっと記憶があやふやだけど、
大体、こんな感じだったように思う。

私は、このCMが好きだった。
離れ離れのふたりなのに、軽やかで明るい。
そこに広がりや、ドラマが感じられた。

驚くような刺激や目をひく変化あるような、
そんな類のCMじゃなかったけれど、
いつもでそこに流れているような、
ちょっといいなと思わせるような日常を切り取った、
自然なドラマだった。

たぶん、当時の私にとっては、
ちょうどいいドラマだったんだと思う。

だからこのCMのシリーズが終わった時、
少し寂しかった。

このさりげないドラマが終わってしまうなら、こうかな?
と、なんとなく思っていたものはあった。

私が勝手に考えて、期待していた最終回――。


映像は、いつもどおり地方のどこかを旅する彼。

いつもどおり、彼の柔らかい声が、彼女宛の手紙を読む。
でもそこには、いつもの決め台詞、「君に似たお酒です」がない。

彼の声が消えて、映像は、都会のマンションの一室。
彼女は、手紙を手に「どうしたのかな?」と不安げな顔をしてる。
テーブルには空っぽのグラス。
いつも彼氏が贈ってくれるお酒もない。

と、ピンポーンとチャイムが鳴る。
彼女がドアを開けると、お酒を持った彼がいる。

  「ただいま」

彼女は笑って。

  「おかえり」

最後のカットは、
いつも彼女がひとりで座っていた場所。
今は、ふたりがグラスをあわせて乾杯してる。


こんな風に終わればいいなあ、と思っていた。
そしてその最終回を見て、
「これから一緒に暮らすのかな?」とか、
「今度はふたりで旅に出るのかな?」なんて
あれこれ想像したかった。

物語は閉じて欲しい――。
私は、物語を書く職に就いてはいるけれど、
ついそう思ってしまう。
登場人物たちにも、穏やかな人生を願ってしまうから。

ともあれ、いつかまた、
あんな爽やかで軽やかなCMシリーズが、
見てみたいと思う。

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2012年2月17日 (金)

さわやかな帰省

仕事で新宿、渋谷などを歩いていると、
オシャレな母子が手を繋いで、さっそうと歩いている姿が目に入る。
ちょっとした荷物を持って、ちょっとだけ華やかな格好をして。
おそらくこれから、ご実家に向かうのだろう。

たまにしか会えないから、きちっとした格好で。
心配させたくないから、明るい格好で。

そんな気持ちが、可愛い小物や綺麗な色選びから、
うかがえるようだった。

お子さんもいい子にしていて、
小さな背中にあった、小さなリュックを背負っている。

子育てをするようになって、こうした子供と親との風景に
自然と目が行くようになった。

私もいつかああなるのかな?
と思いながらも、いや、どうかなあ?、と首を傾げる。

実家までの移動というのは、
私にとっては、まだまだ大変な重労働だからだ。


私が、実家に移動する時、
ノートパソコン、洋服、化粧品、シナリオ資料、等々……
どうしても置いていけないものをまとめると、
手荷物はあわせてざっと、13キロほどになる。

もちろん、この重みの主な成分は、我が子だ。

実家に帰るとなれば、これら13キロを担いで、
歩いて電車のって、歩いて電車のって、歩いて電車のって……
の3セットを、しなければならない。

「ワンモアセット!」と嬉々として叫ぶ、
ビリーの姿が脳裏をかすめるほど、過酷な訓練。
ちなみに私は、三年前からブートキャンプ脱走兵だ。

そんな私が言っても説得力はないかもしれないが、
たぶん、週一で13キロ担いでうろちょろしてれば、
確実に痩せると思う。

この13キロの過酷な訓練を軽減するには、
重み主成分な我が子(推定10キロ前後)に、
歩いてもらうしかない。

我が子は活動的な子だ。
しかし、なにせ性格スペックがシャイ。

見慣れない風景、沢山の人、騒がしい音。
いつもと違うファクターに気づくと、途端に甘えメーターが上昇し、

  「らっこ!(だっこ)」

と、なる。

未知のものを恐れる気持ちはあってもいい。
その時、同時に母を求める気持ちも、
幼い者たちにとっては危険回避能力の一種と思う。

納得がいく甘えだ。

でも、我が子が、歩くか?、歩かないか?
この手にかかる重みが、3キロか?、13キロか?

それは、この「我が子が甘えたくなるかどうか?」に、
言い換えれば、「我が子が未知に気圧されるかどうか?」
にかかっている。

「プラス10キロくらい、いいじゃない」
という考え方もあると思うけれど、なにせ帰省となると距離が長い。

ずっと抱えて移動するには、
この腕は――出産以来、だいぶ鍛えてきたけれど――
まだまだ頼りなさ過ぎる。

というか、たぶん私が鍛えるより、我が子の成長の方が早い。
体重増加に追いつかない私の筋力に、無闇に期待せず、
ここはやはり、歩かせる方向で努力したいと思う。

ただ「歩け」と言って歩くほどに子供は単純ではない。
そこは、「歩こうぜ!楽しいぜ!」という気分にさせる、
仕掛けを準備しなければならない。

どんな仕掛けか?
そこには各家庭なりの苦労と知恵とがあると思う。

たとえば我が家では、ある時は、おもちゃを持って、
それをふりふり先に立ち、「へい! かもーん!」と呼ぶ。
この時、子供が興味を持つ「恥ずかしいポーズ」を取る。

この時の「恥ずかしい」のイメージは、
子供のお遊戯で使われるような、へんてこポーズだ。
詳細は想像にゆだねたい。

恥ずかしいが、そんなこと言ってられない。

10キロ以上の米袋抱えて、階段登ったり降りたり、
人混みを抜けてホーム移動したり、
電車乗り換えたり、階段登ったり、また降りたり、
出来るかという……。

おもちゃと恥ずかしポーズで気を引くことができれば、
我が子との追いかけっこが成立する。
こうなれば、また、しばらく走ってくれる。

またある時は、歌を歌う。
歩くことを楽しくするような、軽快でリズムのはっきりした歌がいい。
もちろん、子供が知ってる歌で。

気に入ると、一緒に歌いながら歩いてくれるので、
その時、「いえーい!」とか「よいさ!」とか、
接待カラオケばりに気持ちの良い合いの手を、ぽんぽん入れる。

やっぱり恥ずかしいが、そんなこと言ってられない。
なにせ相手は、10キロ越えだ。盛り上げろ。

とにかく、子供相手に中途半端はいけないのだ。

ちょっと脱線するが、中途半端がダメということで、
たとえばこんな話がある。


お母さんがお仕事で、小さなお子さんを預ける時。
お子さんが、お母さんとなかなか離れられない、
というのはよくある。

お子さんも、大好きなお母さんと離れるのは、
寂しかったり、怖かったりするのだろう。

でも、預かる方もプロなので、
おもちゃやお友だちとの会話で、ちょっとずつ
母まっしぐらな気持ちをそらし、
お子さんを、お母さんから引き離していく。

この「子供の気持ちが離れた瞬間」を逃さず、
さっとお母さんがいなくなると、子供は母不在に気づいても、
意外に、「いないもんはしかたない」と、開き直って遊ぶらしい。

しかし、この時。
「最後にもうひと目、我が子の顔を見ようかな?」、
なんて、窓から顔を出したりすると、子供はめざとくソレを見つけ、
途端に気持ちを、お母さんに集中。
火がついたように泣き出してしまう。
母まっしぐらだ。

うまく気持ちを離していったのに、ちょこっと顔を見せてしまう。
この半端な感じが子供はダメらしい。

怒るなら怒る。去るなら去る。遊ぶなら遊ぶ。
徹底しないと行けないのだそうだ。


歩かない10キロに話を戻す。

だから、歩いて貰うには、恥は捨てる。
乙女心も捨てる。

いや、本当はソレは捨てちゃ行けないのかもだけど、
自分の子供相手に可愛さなんかはまだ、要らないだろう。
そんなの母親参観日に、子供が「うちのかーちゃん恥ずかしい」と
肩身の狭い思いをしない程度に嗜めばいい。

今必要なのはたぶん、
危ない時は「ダメ!」って怒る、怖い鬼教官キャラと、
一緒に時間を盛り上げる、おともだちキャラなのだ。

「鬼教官」と「おともだち」。
これを併せ持っての、母親なのだろう。
今の我が子の年齢や性格に対して限定的にだけど、
思っている。

ともあれ、
「恥ずかしいポーズ」と「恥ずかしい合いの手」。
これは、踊りと歌とも言えるかも知れない。

この方法で、私はそれなりには
我が子を歩かせることに成功してきた。

ところがこの前、帰省した時のこと。
我が子のノリが悪かった。

私が仕掛けた数々の魅惑トラップ、
「恥ずかしくも楽しげな歌や踊り」に引っかかりはする。
だけど、すぐに立ち止まってしまうのだ。

何故だろうと思う間もなく、

  「この子、歩かされてることに勘づいてる!!」

ニュータイプのように、
キラリーンと頭にひらめきが走っていた。

そうか……。
気づいてしまったか……。

気づいてしまったからには、もう後には戻れない。
よし、大人の話し合いだ。

私は素直に、思いを打ち明けた。

  「あのね、君が大きくなってお母さんとっても嬉しい」

  「うん」

  「でも、君ね、大きくなったから、ずいぶん重くなったんだ。
   だから、もう少し、一緒に歩いてくれるとお母さん嬉し……」

  「やだ」

おう! 一刀両断!

「じゃああの柱まで」とか、「あと十歩だけ」とか、
「お荷物少し持ってくれる?」など、なおも説得を続けると――、

  「おかしゃん、ぼく、あたし、つかれちゃったんだよ~」

と、声を震わす。
なんだ、その迫真の演技は?

案の定、通りすがりのおじさんが、笑ってる。

  「あっはっは!
   ホラ、お母さん困ってるから歩こうよ」

知らないおじさん発見! 人見知りスイッチオン!
甘えんぼメータ急上昇!

  「らっこ!」

ああ……。

でも、おじさん、ありがとう!
応援してくれる気持ちだけでも嬉しい。

そうして、おじさんの応援を背中に受けながら
10キロの温かい米袋と化した我が子を担いで、
電車の乗り換えに挑む。

ホームは昼間と言え、ひと、ひと、ひと、だ。

私は右利きなので、我が子を抱えるのも右側が多い。

すると、大きくなった我が子の体で、
視界の前方、右側が大きく遮られてしまう。
私から見て、右前から歩いてくる人が見えないのだ。

これはお子さんを抱っこしてるご婦人を見かけたら、
是非とも、まわりの方は注意して欲しいことなのだが、
子供を抱えてる側の視界はかなり悪い。

そんなわけで、ホームという場所はかなり緊張する。

なにせ人は、急いでる。早足だ。
移動時間なんて人生のロスとばかりに、せかせか歩く。

目指す電車、目指す車両、目指す空席に向け、
直線的に突き進む。

そんな時、どちらが悪いこともなく、
衝突してしまうこともある。

だから駅のホームでは、座れなくてもいいから、
まわりの人を避けるのではなく、避けて貰うようにする。
動く時は、焦らず、ゆっくり。

なんなら一本逃して、次の電車にしても構わない。
それくらい、おおらかに気持ちを持つ。

これが基本だ。

で、案の定。電車が来て、座れなかった。
まあ無事乗れただけいいやね、と思いながら、
パソコンの入った鞄を足下に置いて、我が子を抱っこしていると。

  「どうぞ」

なんと、おじさまが席を譲って下さった。

  「ありがとうございます!
   ホラ、君も。ありがとは?」

  「ありあとー!」

即座に我が子と一緒に頭を下げ、
ありがたく座席に座らせていただく。

前はこういうことに慣れがなく、
席を譲られたり、荷物を持ってくれたりするたびに
遠慮して、「大丈夫です」なんて言ってしまったこともあった。

でも今は、好意は素直に受け取るようにしている。

親切な方の心を無にしてはいけないし、
やっぱりどんなに頑張ってみても、
子供も私も、移動で疲れてしまうのだ。

その分、仕事などで私単体で動く時は、
席を譲ったり、声をかけたりするように気をつけている。

もらった親切は、どこか別な場所で返せばいい。
そうやって世界がまわるのは悪くないと思う。

親切なおじさまのおかげで、思いもかけず座ることが出来た。
だが、駅に着けば、また階段を上ったり降りたりだ。
休める時には休まねばならない。

階段を歩いていると、
「エレベータあちらですよ」と教えてくれる人もいる。

でも、エレベーターを使うことは、
すごく空いていない限り、ちょっと遠慮するようにしている。

やっぱりベビーカーと車椅子の方、そして、
おじいちゃんおばあちゃん優先だと思うから。

この日も、我が子を抱えて、階段をえっちらおっちら歩く。

そんなこんなで、「ワンモアセット!」と
心の中で叫びながら、3セットの電車を乗り継ぎ、
地元の駅へ到着する頃には、へとへとになる。

学生時代過ごした懐かしい駅を見渡して、
ここが最後の交渉の場になるのだな、としみじみ思う。

実家まであと数十分。
しかし、ここまで来れば、このひ弱な母にだって、
切り札はある――。

  「ねえ、じーじさがしてみようか?」

  「……」

うお! じーじダメ!?

  「ばーばは?
   ばーばにかっこよく歩いてるとこ見せよう!」

  「う……」


じーじに続いて、ばーばの名前も効果がない。
なんということ!
じーじとばーばは、切り札中の切り札なのに!
召喚が難しい、レアキャラなのに!

これは、一体……?
我が子の様子を観察していると、
どうやらなにか、言い訳を考えているようだった。

だっこしてもらうための言い訳か。
それも、「つかれた」じゃない言葉を探してる。

  (これは、見つからないな……)

もう一押しだ。
そう思った、その時だった。

冷たい風がぴゅーっと吹き抜けた。
と、我が子の頭にピキーンとひらめきが――。

  「おかしゃん、かぜがつよくて、あるけないのー」

だー! そう来たか!
私たちが住んでる東京に比べれば、
実家のあるあたりは風が強い。

そんな言い訳を覚えられた日には、
「ずっと我が子のターン!らっこ、発動!」、
と、なってしまうではないか!
これは、なんとしても阻止せねば。

  「え~っと……。風、そんなに強いかな~?」

  「つよくて、あるけないよー」

ぺたんと座り込む我が子――またもや、迫真の演技と、
その我が子を見つめ、困っている私を見て、
通りがかりの自転車に乗ったおばさんが笑った。

  「あらー! うまいこというわねー!
   ホラ、お母さん困ってるから歩こうね!」

見知らぬおばさん発見! 人見知りスイッチオン!
甘えんぼメータ急上昇! ぎゅいいーん!

  「らっこ!」

うう……。
苦い顔をする私に、おばさんが尋ねた。

  「あら、ひょっとして人見知り?」

  「ええ。人は好きなんですけど、照れ屋なんです」

  「ま、可愛いこと。歩かないの?」

だめ押しで交渉してくれるおばさん。
でも、我が子は話かけられたのが嬉しくて、恥ずかしくて、
でも、やっぱり嬉しくて、ますます私にしがみつく。

  「よおし、わかった! だっこだ!」

我が子を、よいしょっと担ぐ私。
おばさんは、
「お母さん、頑張り屋さんねえ。でも今のうちだけだからね!」
と、笑って去っていった。

実家につくと、
どれだけ歩いたのか、歩かなかったのか報告会だ。
当然、母からは厳しくチェックされる。

  「美和、お前、甘やかしてるんじゃないの?」

でも怒ったって泣いてしがみついてだっこになるし、
泣いたら泣いたで電車の中では大変な迷惑だろう。

そうじゃなくたって泣いちゃうこと、ぐずることはあるんだから、
機嫌よく移動したいんだ、と私なりの考えを言うと、

  「まあ美和ちゃんの子だからね。
   美和お母さんが育てなさい」

と、母は渋々、苦笑する。

そんな母の苦い笑顔を見るたび、
私ってちょっと甘いのかなあ?と思いもするのだが、
おおらかに認めてくれる母に感謝する。

子供を連れてると、本当に、
恥ずかしいことも、情けないことも、もどかしいことも多い。
苦笑や微笑み、爆笑、泣き笑い。
自分にも周囲にも、色んな笑いが絶えないものだ。

でも、きっといつか、こんな、
大人の世界とはちょっとずれたちびっ子感覚はなくなって、
君はすっかり大人になってしまうんだろう。

おばちゃんが言ってくれたとおり、
こんな時期はすぐに過ぎてしまって、もう二度とこないのだろう。

だから、今しばらくは、甘えん坊で恥ずかしがり屋で、
ちょっとクレバーになった君を抱えて、
汗だくの帰省といこうじゃないか。

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2012年2月16日 (木)

一本道シナリオとフリーシナリオについて

以前、ツイキャスで軽くお話ししました、
RPGシナリオにおける一本道とフリーシナリオについて、
質問を頂きましたので、簡単にまとめておこうと思います。



(1)RPGシナリオの種類

大ざっぱに、RPGで好まれるシナリオは二種類あります。
ひとつは、一本道シナリオ。
もうひとつは、フリーシナリオです。

一本道シナリオは、
分岐があまりなくて、誰が遊んでも同じルートを通り、
同じ出来事を体験して、同じ結末に向かう話です。

開発側が用意した一本のラインに沿って、
話が進んでいく感じです。

フリーシナリオは、
どこで何をするかがある程度、解放されており、
比較的自由に物語を進められ、違う出来事を体験して、
別々な結末に向かう話です。

こちらは、
開発側が用意した複数のラインを乗り換えながら、
話が進んでいきます。



(2)メリット&デメリット

一本道シナリオとフリーシナリオにはそれぞれに、
優れた点と、ちょっと苦手な点があります。
シンプルに整理してみますね。

  <一本道シナリオ>
    ・利点:多くの人が物語を共有できる
    ・欠点:自分の意志が反映しにくい

  <フリーシナリオ>
    ・利点:自分の意志が反映された物語を味わえる
    ・欠点:他の人と物語を共有できない


ゲームが好きな方なら上記のようなメリット、デメリットは、
すぐにあげられると思います。

一本道とフリーと。
でも、違いは本当にそれだけなのでしょうか?

もし、ゲーム開発に興味がある人は、ここからさらに進んで、
ユーザーさんのことを考えてみて下さい。

一本道シナリオを好きなユーザーさんのことと、
フリーシナリオが好きなユーザーさんのことです。



(3)一本道が好き!フリーが好き!

一本道シナリオを好むユーザーさんは、どんな人でしょうか?

一本道の特徴は、同じ体験、同じ結末です。

これを「好き!」と思う人たちなので、
たぶん、「人とは違う自分ならではのこと」よりも、
「みんなと一緒のこと」の方が、嬉しい人たちでしょう。

ゲームの「物語やキャラ」について誰かと共有し、
それについて一緒にお喋りして「そうそう自分もそう思う!」と
盛り上がるのが楽しい人たちです。

一本道シナリオでは、共有できる情報が多いので、
掲示板やTwitterなどで、テンポ良く話すのに向いていますよね。

一本道が好きな人は、キャラや世界観を含めた、
「物語を共有するところ」に楽しみを求める人たちです。

世界とキャラを共有できる一本道だからこそ、
友人たちと一緒になって、学校でネットで、あれこれ話をする――。
そんな楽しみ方が出来るのです。


一方、フリーシナリオを好むユーザーさんは、どんな人でしょうか?

フリーの特徴は、違う課程、違う結末。
自分ならではの物語が体験できることです。

これを「好き!」と思う人たちなので、
たぶん、「みんなと一緒のこと」よりも、
「自分ならではのこと」の方が、嬉しい人たちでしょう。

つまり、ゲームで経験した「自分だけの物語」について、
誰かにお喋りしたり、他の人ならではの冒険を聞いたりして、
「自分の場合こうだった!」「そっちはどう?」と、
それぞれの体験で盛り上がるのが楽しい人たちです。

フリーシナリオでは、共有できる情報よりも、
個人個人が得る情報の違いにこそ価値があるので、
攻略サイトやプレイ日誌などで、じっくり読み書きしながら、
お話するのに向いていますよね。

フリーが好きな人は、
「仲の良かったあのキャラがこのルートでは悪役に?」とか、
「こっちの分岐だと王国が占領されちゃう!」みたいな、
自分の行動が未来を変えていく様子を体感したい人たちです。

またすべての分岐を試そうと思えば、
そのゲームを何周もすることになるので、
ゲームを遊んでいる時間も、どちらかというと長くなります。

フリーシナリオを好きな方は、
キャラや物語という切り離された部分部分ではなく、
「すべてひっくるめた世界」、それ自体を楽しむ方が多いです。

キャラや世界に様々な未来があるフリーシナリオだからこそ、
そこでの冒険を自分のものとして楽しんでいく――。
そんな楽しみ方が出来るのです。

みんなと一緒か? 自分ならではか?
ひとつのゴールか? 複数の未来か?
同じ気持ちで盛り上がるか? 個人差を分析して楽しむか?

一本道シナリオを好きなユーザーさんと、
フリーシナリオを好きなユーザーさんでは、
少しずつですが、ゲームに求める楽しみ方や、
ゲームを通じて出会うお友だちのタイプが違うのです。

まとめるとこんな感じになります。

  <一本道シナリオの好きなところ@ユーザー視点>
    ・友だちと「物語」や「キャラ」について盛り上がれる
    ・Twitterや掲示板、チャットや同人活動がしやすい
    ・一周目で取りこぼしなくクリアできる
    ・ゆえに時間がなくても安心

  <フリーシナリオの好きなところ@ユーザー視点>
    ・友だちと「攻略法」や「世界」について盛り上がれる
    ・ブログでのプレイ日誌や、攻略サイトが作りやすい
    ・何周も遊べる
    ・ゆえに長い時間楽しめる

では、次に、ゲーム開発者から見た、
一本道シナリオとフリーシナリオの違いはなんでしょうか?



(4)開発者視点で考える

まず結論から言いますと、だいたいこうなります。

  <一本道シナリオ@開発者視点>
    ・分岐がない分、イベントひとつのボリュームが増える
    ・一周目ですべて見せ尽くしてしまうこととなる

  <フリーシナリオ@開発者視点>
    ・分岐の分だけ、イベント総数が増える
    ・一周目で見られるのは世界のほんの一部となる

読んでいただいてわかるとおり、全部デメリットです。

開発者が感じるメリットの大きい部分は、
ユーザーさんの喜びとほぼ同じなのです。

例えば、「時間が少なくても安心してプレイできる」
=「忙しい人たちにも遊んでもらえる」とか、
「何周遊んでも新しい発見がある」=「長く愛される」とかですね。

なのでここではデメリットだけ書き出しています。

開発者が感じてしまうシナリオに対する大きな問題は、
やはりコストです。

一般的には、
フリーシナリオの方がコストが高いと思われています。
分岐でイベントの総数が増えるので、
シナリオやイベント作りで、コストがかかるというのです。

しかし、これは難しい点もあって、
一本道でシナリオでイベント総数を減らせば、
イベントひとつひとつの内容は濃くなっていきます。

そして一本道なので、ユーザーさんがそのゲームを消化し、
飽きてしまうのも、当然早くなります。

「クリアした人から話を聞けば、それでいいや」、
となってしまう可能性もあるのです。


一方、フリーシナリオでイベント総数を増やせば、
イベントひとつひとつは、さっぱり仕上げにもできます。

しかし、総数が多い分、フラグ管理は大変ですし、
ユーザーさんの時間や気力を多めに求めることになります。

そして、分岐が多いということは、
それだけ物語に揺らぎがあるということです。

分岐先の多用な価値観にさらされることで、
ユーザーさんによっては、自分の好みではない物語を
体験してしまう可能性もあるのです。

飽きられるのを覚悟して、
大衆受けする同じ味をフルコースでやるのか?

難しいと言われるのを覚悟して、コース料理を避け、
様々な味わいのある単品で勝負していくのか?

そんな感じでもあります。



(5)ちょっと脱線して……「一本道はつまんない!」について

ここでちょっと脱線して、
「一本道シナリオはつまらない!」とおっしゃる方、
まわりにいらっしゃいませんか?

私は結構、そういう方とお話ししたりします。
私自身、フリーシナリオを作る側にいたので、
そうしたことも関係があるのかも知れません。

それで私が個人的にですが、
今まで、「一本道は嫌い!」という方のお声を聞いてきて
「もしかして、こうじゃない?」と思ったことを、
ちょっと書いてみようと思います。

一本道シナリオは嫌だ、つまらないという理由に、
「自分の意見が反映されないから」と言うのもあるでしょうが、
お話を聞いていくと、どうも、「シナリオに納得がいかない」
という気持ちがある場合が多いようです。

納得がいかない――。だから、せめて自分で選択したい。
この流れです。

これは結構、重たい問題です。

と言うのも、一本道シナリオは、
分岐による多様な価値観、どちらも正しいというようなものを、
大きく斬り捨てているものなのです。

クエストなどで、小さなところでは拾えますが、
大きな流れでは、ひとつの正解、ひとつの結末に向けて
ひたすらにひた走ります。

だからこそ、一本道シナリオは、
年齢や性別にあまり左右されず、大勢の方が納得がいく、
王道的な勧善懲悪や成長物語などにするわけです。

そうして、
万人受けを目指して作ったはずの一本道シナリオで、
満足してもらえていないのですから、
もしかしたら、なにか問題があるのかも知れません。

もちろんどんなに良いシナリオでも、
あうあわない、という好みはありますので、
絶対に問題があるかどうかはわかりません。

ただひとつ、これかな?、という部分があります。
それは、「テンポの悪さ」です。

これはシナリオの善し悪しの話とは、ちょっと違うのですが、
実は一本道シナリオのイベントというのは、
やや濃厚風味に仕上げられる傾向があります。

何故かというと、一本道シナリオには分岐がないので、
一周プレイすれば、ほぼその内容は理解されてしまいます。

手の内をさらして、「もうこれ以上何も新しいものはないよ」、
と言ってしまっているわけです。

なので、一本道シナリオのイベントというのは、
周回前提のフリーシナリオのイベントと違って、
たった一周でユーザーさんを満足させねばなりません。

そして出来ればですが、
ネットでシナリオの詳細を知ってしまった方にも、
是非、手にとってプレイして欲しい!と思わせる、
工夫が必要になります。

だからこそ、
コピペされてしまう文字ベースの台詞より、
映像部分、演出部分に力が入っていくのです。

そうなるとひとつひとつのイベント、
そしてそれらの連なりで見せていく大きな物語に、
見ないと損だと思わせる感じや、満足感を求められます。

その損な感じや満足感を確保していこうと、
映像の派手さなどでグラフィックさんが頑張り、
それらを駆使した演出でプランナーさんが頑張り、
結果として、イベントが華やかになっていきます。

それは華やかで、魅せられるものではありますが、
けして、あっさりしたものではないのです。

つまり、

「一本道で一回しか見ないんだから、
 もうちょっと印象に残るよう工夫しよう」

と、それぞれの開発者が随所でやってしまいがちなわけです。

こうした現場では、
サクサク進むようなテンポはあまり考えられません。

こうした、華やかで重厚なゆったりめのものが、
現代の時間のテンポにあわない部分は多少あります。

たとえばブログベースから
mixiやTwitterに人々が移行していくように、
「素早く、どんどん情報を取捨選択していきたい」
というような現代人の暮らしのリズム。
こういうものとは、ちょっと乖離する部分もあるのです。

魅せられるだけの映画やアニメやドラマと違って、
ゲームは自分が介入して進めていくものなので、
自分のアクションのまどろっこしさが、若干気になる、
そういう人も出てくるのだと思います。

また純粋にシナリオがダメという場合もあります。

開発が様々な理由から一本道シナリオを選んだ以上、
そこには、シナリオ側でも一周でユーザーさんを満足させる工夫が
必要となってくるわけです。

しかしそうした認識がない人たちでシナリオを管理していると、
シナリオにおけるユーザー満足を、
軽んじたシナリオが出来上がってしまいます。

商品として売り出す以上、ターゲット層を想定するわけですから、
今現実を生きる中高生以上のユーザーさんたちの心に、
なんらか、かすっていくもの……、
場合によっては傷をつけるくらいのもの、を作らねばなりません。

つまり、「シナリオのテーマ」ですよね。
ここへの配慮がないと、
創作側のやりたいことだけで、シナリオが書かれてしまうので、
ターゲットとする人々の求めるものと、どんどんずれていってしまうのです。

その上、先に触れたとおり、
一本道だとイベントは濃厚に見せようとしがちなので、
たっぷり時間を使って、派手に演出したりします。

その結果、「演出は立派だけど、内容はコレか!」とか、
「コレの、どこに共感しろっていうんだ?」みたいな、
非情にちぐはぐで、残念なことも起きてしまうのです。

打開策としては二点あります。

まず第一には、一本道シナリオだからこそ、
シナリオのテーマは万人受けするように調整する。
これに尽きます。

しかし、テーマにしくじった、
あるいは毎回しくじるヤツがいる、という場合もあるでしょう。

その場合は、仕方がないので、
演出に携わる人が結託して、とにかくテンポ良く!を心がけることです。

少し話を戻しまして。
もうひとつ、「一本道シナリオをつまらない!」と言わしめる、
意外な伏兵がいるかも知れないと思っています。

それはシナリオではなく、クエストです。

一本道シナリオのRPGでは、その自由度のなさをカバーしようとして、
「自由度の高いクエストを大量に!」という話が出やすいのです。

この、「大量に!」がくせ者です。
本当に自由度をどうにかしたいと思うのなら、
必要なのは「分岐」になります。

つまり、ユーザーさんが選んだ選択の先にある、
多用な未来ですよね。

しかし、「大量に!」と言う人たちは、本来こうした分岐に使うべき労力を、
ただひたすら、数を揃えることに当てようととします。

その結果、
「○○を倒せ!」「××を取ってこい!」「△△に会え!」
と言うだけの、そっけないクエストが大量生産されて、
バトル班やマップ班に、

「見たことのないボスやアイテムや仕掛けをつけて、
 このクエストならではの面白みを付け足してもらえないか?」

と、わけの分からない相談することになってしまうのです。

シナリオの自由度が問題になっているのに、
それをクエストでカバーしようと言っているのに、
何故か、バトルやグラフィックの真新しさだけで勝負しようという。
これは、だいぶ方向を間違っています。

このようなことが起きるのには、仕方のない事情もあります。

一本道の現場では当然、
一本道を書ける人や読める人が育ちやすいので、
フリーシナリオの持つ、
「多種多様な価値観」「納得がいく複数の正解」
というのが苦手な人、わからない人が多いのです。

そこで、分岐の考え方が、
「当たりとハズレ」になってしまったり、
「違うアイテムを渡せばそれでいいや」とか
「違うボスと戦えればそれだけでいいや」などと、
なってしまったりします。

これが濃厚な一本道メインシナリオの間に
ちょいちょい挟まってくるので、イラッとするわけです。

分岐の先のすべてが、納得のいく物語であるかどうか?
これを書ききるシナリオライターやプランナーが確保できない限り、
「分岐があれこれあって、自由度の高いクエストを……」
というのは難しいのです。

ですがもしここもクリアできるなら、
「みんなと共有できる一本道シナリオ」に、
「自分らしい小冒険が出来るクエスト」という、
魅力的な布陣も望めるのです。



(6)RPGシナリオの未来

一般的な視点、ユーザーさんの視点、開発者さんの視点で、
一本道シナリオとフリーシナリオの良い点や難しい点を見てきました。

一本道とフリー。
これはどちらが優れていると言うことではなく、
どちらがより今のユーザーさんに、
あるいは今の開発体制に合っているのか、
といことで選ばれるものだと思います。

私はRPGの開発現場で、
一本道シナリオと自由度の高いフリーシナリオに関わってきました。
なので余計に思うのですが、どちらも面白いです。

色々なことに時間と気力を奪われる現代社会においては、
みなさん、自分が支払う時間と気力について敏感です。

「一ヵ月間、これをするだけで、何キロ痩せます」とか、
「何ヶ月、この教材で頑張れば、この資格が取れます」とか。

かかるコストと、得られる対価が把握できないと、
そこに時間やお金や気力をつぎ込もうという気には、
なかなかならないのでしょう。

損をしたくない。
かけたコストよりも、お得なことがしたい。

そういう人が増えているのが、今の時代だと思います。

そんな中でRPGに求められるのも、
「最低でもこの時間をかければ、これだけの感動が期待できる」
「これさえやれば結構な人と話があう」となってしまうのは、
少々寂しいものですが、仕方ない流れでしょう。

こうした時代背景から、今しばらくは、
一本道シナリオ寄りの傾向が続くかも知れません。

しかし、なにかが定着した後には、必ず次のステージが出てくるもの。
一本道シナリオの安心感が当たり前になった後は、
必ず、+αを求められることになっていくのではと思っています。

最後に、ちょっとその兆しが見えるお話をしましょう。

私は一昨年から、
いわゆる乙女ゲームのシナリオも執筆するようになったのですが、
そこで、こんな言葉を聞きました。

「金太郎飴シナリオ」

これ、なんだかおわかりになるでしょうか?

実は、乙女ゲームのほとんどはアドベンチャーです。
ゲームの中には、あるキャラクターと仲良くなっていくお話が、
仲良くなれるキャラクターの数だけ入っています。

男性の方は、
ADVタイプのギャルゲーを想像していただくといいかもしれません。
まったく同じではないのですが、構造が似ています。

乙女ゲームには、大きく分けて二種類のシナリオがあります。

ひとつは、「仲良くなれる」=「攻略できるキャラクター」のシナリオ。
もうひとつは、攻略キャラにかかわらず、必ず通るシナリオ。

後者の、「攻略キャラにかかわらず通るシナリオ」とは、
たとえば学校に入って三年間過ごす、みたいな部分です。
作品や開発さんによってはこれを、「メインシナリオ」とも言います。

乙女ゲームは、
「キャラと仲良くなる」=「そのキャラを攻略する」ゲームです。
しかし一度に攻略できるキャラはひとりなので、
ユーザーさんは、好きなキャラの回数だけ、このゲームをクリアします。

つまり、乙女ゲームは、周回が前提のゲームです。

そこで問題となるのが、「メインシナリオ」です。
周回前提ですので、これは何週分も見ることになるわけです。

しかしこの、
何回も見る「メインシナリオ」と、キャラごとに違う「キャラシナリオ」と、
このふたつの物語の切り分けがうまく行かないと、
キャラごとの物語のはずが、他のキャラとも同じ展開で、
台詞がちょっと違うだけになってしまいます。

これが、「金太郎飴シナリオ」――。
どこを斬っても同じ話、といわれるものの正体のようです。

乙女ゲームではすでに、「同じ経験が出来る安心感」より、
「何週しても目新しい、変化や刺激」を求める意見もある、
ということなのです。

ゲームジャンルでは新しい存在である
乙女ゲームだからこそ、目まぐるしくトレンドが変わり、
ユーザーの求める変化に対して、
開発陣も「よし!やろうじゃない!」と、
柔軟なのかも知れません。

代わり映えもしない同じシナリオを嫌う傾向。
他の人たちと違った経験を求める傾向。
こうした時代が、やがてRPGにもやってくるかもしれません。

私もフリーシナリオを愛する身として、備えていますので、
そんな機会が来たら即、フリーシナリオをお届けしたいと思います。

でも、やっぱり、
人を楽しませるのがお仕事のゲームなのですから、
「一本道だ!」「フリーだ!」「どっちがいい」「どっちが悪い」、
だけじゃなくて、色んな形のシナリオや、色んな遊び方――、
そして、その先にある友だちとの盛り上がり方が、
出てくるといいですよね。

最後まで読んで下さってありがとうございました。

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2012年2月15日 (水)

バトンリレーのこと

ゲーム開発はバトンリレーみたいなものです。例えば私はシナリオライターですが、現場監督や企画やバトルのリーダーからバトンを受け取って、彼らのオーダーに合致したシナリオを書き終えOKをもらうと、そのバトンをイベント班やグラフィック班に手渡します。

バトン(=作品)は人手を経るごとに洗練され、より具体的な形となって次の部署に託され、完成に近づいていきます。ゲーム開発はチームで乗り切る団体戦なのです。だから誰かひとり突出した能力者がいたとしても、ずっとその人物のターンというわけではないです。

よく誤解されるのがシナリオライターのターンです。ライターってずっとバトンを握りしめ「俺様のターンだ!」とやってるんじゃないの?――と。そんなことはありません。それではグラフィッカーさんはどんなキャラやマップを用意すればいいのかわかりませんしイベント班はイベントを組めません。

シナリオは色んな部署の素材割り出しに必要なので早い段階で書き終えます。バトル班やマップ班も同様に、仕様を固める時期を集中して走り込んだ後は関連部署に「こういう仕様だから合わせて欲しい」とバトンを渡し、バトン受け渡しの調整が整った後は、黙々と目の前の業務に徹します。

そういった各部署が複雑に絡み合って作業する中で、誰かが何ヶ月もバトンを握りしめたまま「俺様のターン!」とやっていたら開発は麻痺してしまいます。なので現場監督はそんなことがないよう先行してゲーム性を詰め、問題があれば早めに対処し、適切な指示を飛ばしてバトンリレーを先導します。

バトンは必ず次の走者に渡すものであり、バトンを手にしていて良い時期、自分がメイン走者となって走っている時間というのは、役職に限らず決まっているのです。中でもシナリオライターは、「さっさとバトンを渡せ!」と各部署からせっつかれる役職です。シナリオはいつも時間との戦いなのです。

シナリオライターは自分の区間走行が終わっても気が抜けません。バトンを持ってる現場から「シナリオでこれができないか?」と、瞬間的にバトンを手渡されることがあるからです。そんな時は「うお!ここで来るか?」と心で思いながらも「できますよ!」と笑顔で引き受けるしかありません。

そんな時シナリオライターは全速力で代走します。どこまでどう走ればいいのか、現場から具体的な指示があるので迷うことはありませんが、とにかくこれも時間との戦いです。早ければ早いほど現場に時間を渡せます。ゲームは現場で出来ています。シナリオがバトンを止めるわけには絶対にいきません。

こうして、ところどころシナリオライターの代走を挟みながら、チーム全体でバトンを回して一年から二年半――。長くて短い開発期間をチームみんなで完走した時、その「バトン=作品」には開発者全員の思いと、工夫を凝らした様々な面白さが詰まっていることになります。

走者として自分の区間を走りきって次の走者にバトンを渡していく。これは開発者のひとりひとりがお互いの技を認め、信頼と尊敬によって結ばれていなければ成り立たないものです。誰かひとりが走り続ける開発もあるかもしれませんが、こういった全員完走の開発がひとつの理想だと思っています。

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2012年2月 7日 (火)

サガ・フロンティア~アセルス編~回顧録・その3

サガ・フロンティア~アセルス編~回顧録・その3

前回、「サガ・フロンティア~アセルス編~回顧録・その2」から
だいぶ時間があいてしまいましたが、
引き続き、アセルス編について昔語りをしたいと思います。
今回が最終回になります。



(7)もうひとりのヒロイン

アセルス編にはもうひとり、ヒロインがいます。

根っこの町に住むお針子ジーナです。
彼女は、人間の少女ですが、親方について
妖魔たちの衣装を仕立てる仕事をしています。

アセルスの目覚めを待ち続けたジーナは、
アセルスに憧れをいだいています。

ここで本来、王道的な展開であれば、
アセルスは白薔薇姫ではなく、ジーナを連れ、
妖魔世界からの脱出を試みるはずです。

アセルスとジーナという組み合わせであれば、
「一緒に、人間の世界に戻ろう!」という目的が
はっきり持たせられます。

そしてまた、
「気に入ったのならジーナをお前の寵姫にすれば良い」
というオルロワージュ様への反発、
妖魔たちの、永遠ではあるけれど
(人間からみると)歪んだ愛の形への拒絶と、
真の愛のあり方への物語も描けます。

では、なぜ、アセルス編は
このような王道展開を取らなかったのか?

ここに私のやりたかった、テーマがあります。

これからの時代、
ピンチの女の子を助けるのは男の子ではなくて、
自分自身――。

かっこいい女の子が助けに来てくれる……
というわけでもないのです。

ジーナにとってアセルスが王子様ではないように、
アセルスにとってもまたジーナは王子様ではありません。

ジーナもアセルスも、
自分の手で自分自身を助けなければならないのです。

実はジーナは、自分を救う手がかりを見つけています。

ジーナはアセルスと同じように
両親のいない寄る辺なき身でありながら、
手に職を持つことで、妖魔の社会に
ささやかな居場所を作ることに成功しているのです。

一方、アセルスは
オルロワージュ様に命を救われ、彼の養女として、
妖魔の社会に居場所を与えられながらも逃げ出し、
結果、自分自身まで見失ってしまいます。

現実を受け入れ、おとなになる覚悟を決めた少女と、
現実を拒み、子供に逆戻りしてしまった少女。

ジーナとアセルス、
ふたりは同じ悪夢にさらされながらも、
対照的な存在なのです。

そのためふたりはお互い心惹かれながらも、
その歩む道はけっして交わることのない、彼方にあります。

アセルスを見守りながらも、
けっしてアセルスと共には歩めない――。

そんな、一抹の寂しさと、
過酷な現実を生きる逞しさを持った
ジーナという少女の存在が、
アセルス編をわかりやすい王道モノとは
違った味わいにしているのです。

ゲーム本編ではアセルスの物語を伝える語り部であり、
傍観者であったジーナ――。

そのジーナとアセルスの絆の行き先は、
エンディングで語られることになるのです。




(8)ゲームだからできる未来

そうして、ジーナではなく白薔薇姫を連れて
アセルスは妖魔の世界を後にします。

そこにオルロワージュ様の配下である
黒騎士たちの追っ手が次々とやってきます。

先輩方のご助力のおかげで、
妖魔たちのバトルも、たいへん魅力的なものとなりました。

黒騎士による追撃イベントでは、
イトケンさんこと、伊藤賢治さんの素晴らしい楽曲も
あわさって、厳しくも華のある、
スリリングなバトルが体感できます。

アセルスを主人公に選んだユーザーのみなさんは、
この追っ手襲撃イベントに怯えながら、
選択を迫られたことと思います。

人間として闘うか、妖魔として闘うか――と。

半妖として、人間と妖魔の特徴を兼ね備えたアセルスを
どう戦わせるのかは、ユーザーの皆さんに委ねられています。

そして、そのアセルスの生き様が、
後のアセルスの未来を決めることになるのです。

オルロワージュ様の追っ手を撃退し、
アセルスは白薔薇姫の手を引き、世界をさまよいます。

ここではないどこかを求めて、
悪夢の中を往くような旅だったでしょう。

そして、その逃避行の中でアセルスは、
人間界にはもう自分の居場所はどこにもないと、
思い知らされます。

その深い孤独や損失感がアセルスの心に、
いっそう白薔薇姫への愛着を生み出していきます。

ところが、アセルスはある時、唐突に、
白薔薇姫を守るという意味を失ってしまいます。
残されたのは、無力で愚かな自分だけです。

――はたして自分は、
――白薔薇姫を守るために戦っていたのか?

アセルスは勝手にそんな気になっていただけで、
白薔薇はアセルスに対して、なにも望んではいませんでした。

なぜなら、最初から助けを待つ姫君は白薔薇姫ではなく、
アセルス自身だったからです。

そんな白薔薇姫にも、ひとつ夢がありました。
彼女が闇の迷宮で見せた覚悟から、それは読み取れます。

白薔薇は、ただアセルスに、
アセルスらしく生きて欲しかったのです。
それがアセルスという半妖に魅せられてしまった、
白薔薇の心からの願いでした。

アセルスがどんな道を選ぼうと、白薔薇は応援したでしょう。

こうして白薔薇姫を自由にするという、
分かりやすい目的にすり替えて、
自分の反発心をカモフラージュしていたアセルスは、
なにもかも失ってしまいます。

すべてを失ってしまってアセルスはようやく、
オルロワージュ様と向き合う覚悟を決めるのです。

 あなたにもらった命ではあるけれど、
 私は、あなたの後継者にはならない、と――。

現実の世界でも、社会にでるとき、
子供たちは必ずこうした真実に直面します。

「大人が悪い、だから世界はこうなんだ――」

今までは、どこかの誰かに向けて、
そう言っていればよかっただけの問題が、
いつの間にか自分の肩にのしかかってくるのです。

「この世界が嫌なら、自分の世界を切り開け――」
「新しい世界を、その手で作れ――」

これは父親との戦いであり、
また、自分を育んできた旧世界との戦いです。

子供という殻を脱ぎ捨て、
新しい自分に、大人の自分に生まれ変わるために、
誰もが通る道なのです。

アセルス編は、マルチエンディングです。
人間END、半妖END、妖魔ENDの
三種類が用意されています。

オルロワージュ様との避けられない闘いを終えた後、
アセルスがどんな結末を選ぶのか?

アセルスを影ながら見守ってきた
お針子ジーナとの絆の行く末はどうなってしまうのか?

そして闇の迷宮に囚われた白薔薇姫は?

それはユーザーの皆さんの手に委ねられています。

色々書かせていただきましたが
私が妖魔世界やアセルスたちにどんな思いを籠めたところで
それはあくまで製作過程での思惑であって、
物語の解ではありません。

ゲームは開発終了と同時に開発者の手を離れ、
遊んでくださったユーザーの皆さんのものとなります。

ゲームの物語は開発者の脳内ではなく、
ユーザーさんの心の中で完成されるものです。

私は当時も、そして今でも、
アセルスたちの物語の行く末は、
ユーザーの皆さんに委ねたいと思っています。



(9)失われた物語

アセルス編には没になったエピソードが沢山あります。

 ・ジーナの血に惹かれながら吸血を拒むアセルス
 ・零姫なき後、寵姫を束ねる聖母のような寵姫長
 ・焼却炉からの脱出イベント
 ・イルドゥンとラスタバンによるアセルス監視イベント
 ・ナシーラ博士によるアセルスの人体実験
 ・ヌサカーン先生の診察イベント
 ・ゾズマのパートナーの下級女妖魔
 ・アセルスに魅了されてしまう下級妖魔
 ・白薔薇と瓜二つの妖魔、紅薔薇姫

などなど……。
少しだけですが、その内容をご紹介したいと思います。


<焼却炉の脱出イベント>

オルロワージュ様の元から
白薔薇姫を連れ脱出するイベントのひとつとして考えていました。
脱出方法も複数あるところがサガらしいですよね。

妖魔の世界に不要な醜いものを焼き捨てる焼却炉。
そこをくぐり抜ければ、別な世界に行けると聞いた
アセルスは白薔薇姫を連れ焼却炉に飛び込みます。

激しい炎に襲われ、
アセルスと白薔薇姫はいったん灰になってしまいます。
しかし、その肉体は妖魔なので再生します。
生まれ変わるイメージです。

妖魔の礼装は焼け落ちてしまったままなので、
ふたりは一糸まとわぬ姿となって、
別な妖魔の君に衣装をもらいにいきます。

そして、そこから、
半妖であるアセルスの新しい生き方を模索して、
さまざまな妖魔を訪ねていく旅が始まる予定でした。

アセルスと白薔薇姫の裸キャラ(!)まで
作っていただいていたので、
これが入らなかったのは非常に残念でした。


<紅薔薇姫のエピソード>

紅薔薇姫のエピソードも心残りです。
闇の迷宮で白薔薇姫を失った後、
アセルスのもとにひとりの女妖魔が送られてきます。

彼女の名は、紅薔薇姫――。
白薔薇姫に瓜二つの容姿を持った妖魔です。

彼女、紅薔薇姫は、オルロワージュ様が
白薔薇姫の面影から創りだした、新しい妖魔でした。
心はまっさらで、言われたとおりにしか行動できない、
人形のような存在です。

自分の寵姫である白薔薇姫はやれぬが、
アセルスの気持ちを組んでやりたいという
オルロワージュ様なりの優しさなのか……。

それとも、白薔薇姫とそっくりの妖魔を与えることで、
白薔薇姫を失ったアセルスの心を、
さらにかき乱してやろうというのか……。

オルロワージュ様の真意を、
私は複数持たせるようにしていました。
どちらにでも行けるように作って、ユーザーの皆さんの選択で
未来を変えていけたらと思っていたからです。

物語に正解がない。
すべての選択が正解である。
それが、フリーシナリオのいいところですね。

オルロワージュ様の真意は別として、
アセルスが紅薔薇姫をどう扱うかでも、
紅薔薇姫の未来が変わるようにしたいと思っていました。

紅薔薇はアセルスのために作られた若い妖魔なので、
心がまっさらの、純粋な存在です。

アセルスを主として必死にお仕えしようとするのですが、
それ以外の目的を持っていません。

アセルスはそこにどうしても白薔薇姫の面影を見てしまうのです。
白薔薇は優しかった、彼女ならこんなことを言ったはず……。
白薔薇姫には心があった、と。

アセルスは白薔薇姫と瓜二つの容姿を持ちながらも、
内面があまりにも違いすぎる、紅薔薇姫を避けるようになり、
紅薔薇はそれに戸惑います。

アセルスと紅薔薇姫の関係も、
ユーザーの皆さんの選択で変えたいと思っていました。

白薔薇姫への後悔や悲しみを引きずり、
紅薔薇姫を遠ざけ続けた場合は、
紅薔薇姫はオルロワージュのもとへ戻り、
硝子の棺に眠ってしまう。

しかし、もしアセルスが、白薔薇姫への思いを持ちながらも、
紅薔薇姫を新しい仲間として受け入れられたら、
紅薔薇姫は心を育て、白薔薇姫とはまた違った形で、
アセルスを支えていく女性になっていきます。

紅薔薇姫を教育することはアセルスに、
教育係として白薔薇姫がついてくれた日々を思い起こさせます。

誰かを教え導くことの喜びにアセルスは、
白薔薇姫が自分をどう見ていたのかわかっていきます。

そして、白薔薇姫にとっては、
必ずしもオルロワージュ様の元を逃れるのが
正解だったのではないと気づくのです。

アセルスの世話をやく日々に、
白薔薇姫はささやかな幸せを見出していたのです。

そうしてアセルスは、
自分が白薔薇姫を巻き込んでしまったのだと自覚します。

これは誰のためでもない、自分のための戦いであり、
自分がオルロワージュ様との闘いに
決着をつけねばならないのだとわかるのです。


<その後の物語>

また、マルチエンディングの先の物語も考えていました。

半妖ENDではゾズマが今までの妖魔の掟を覆し、
下級妖魔による反乱を起こして、新しい妖魔の世界を築き、
結果として孤立した針の城がアセルスを頼ってきたり……。

妖魔ENDではついに復活したオルロワージュ様と
妖魔の君となったアセルスとの間で、
黒騎士と寵姫たちが真っ二つに分かれて闘ったり……。

いつかアセルス編の完全版を作れる日が来たらと、
今でも思ってしまいます。

どこかに、「アセルス編完全版? いいねえ!」と
制作費をポンとだしてくださる豪気な方は、
いらっしゃらないでしょうか?(笑)



最後に――。

妖魔たちの世界を思うとき、私はいつも
「作らせてもらった」という気持ちになります。

この広い世界のどこかにひっそりと息づく妖魔たちの世界、
それを、人間たちに知らしめろ、と――

そんな風に妖魔の君のような存在がおっしゃって
私に、あの不思議な青年の夢を見させたり、
オルロワージュ様の名前を思いつかせたりして
いただいた気がしてならないのです。

アセルス編は、そんな不思議な力や、
先輩方の卓越した技術力が合わさって生み出された作品です。
シナリオとシステムが一体となった完成度の高い、
本当に素晴らしい作品でした。

私はこの後、
イベント班のリーダーだった先輩の誘いでサガ班を離れ、
久しぶりに復活した聖剣チームに貰われていくことになります。

サガチームを去るとき、お世話になった、
とある先輩が送ってくれた言葉が胸に焼き付いています。

「自分にとっては聖剣チームはふるさとだったと思う。
 でも、それはなくなってしまったんだ……。
 だからね、生田さん。新しい聖剣をよろしくね」

ゲームはいつだって、出会いと別れです。
本当に、二度と同じチーム、同じ布陣ということはありません。
どんなに望んでも、絶対に、それはないのです。

長年親しんだチームの解散には、
我が身を引き裂かれるほどの痛みがあります。

あの時の私はまだ若く、
そんなことには気づきもしませんでした。
いつだってあの場所に、仲間たちのもとに戻れると、
そう信じていたのです。

だから、私は先輩が何を伝えたかったのか、
その十分の一も気づくことが出来なかったのでした。

私にとって、アセルス編は特別な思い出です。
たぶんあの時のサガフロチームが私のふるさとだったのでしょう。
でも、そうだと気づいた時にはもう、
その場所には、けっして戻ることはできないのです。

それでも、あのキラキラした妖魔たちの世界を
アセルスと白薔薇とジーナの切ない物語を、
憧れだったサガチームの先輩方と一緒になって
世に送り出すことが出来たという事実は、
今も変わらず私を支えてくれています。

サガチームを離れたことを悔やんだ日々もありました。

ですが、子供が住み慣れた家や街を出て、
社会に飛び出し、やがては大人になっていくように、
先輩の庇護のもとのびのびと育ててもらった私は、
先輩たちの作った古巣を後にして、
新しい巣を作らねばならなかったのです。

その新しい巣、
聖剣伝説レジェンド・オブ・マナの話はまた次の機会に……。

サガフロは私が雛として育った大切な場所です。
今は、ただ、そんな故郷を持てたことが、うれしいのです。


ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

ゲームを愛する方々に、
ゲーム開発の古き良き時代のあの空気感と、
そこに籠められた様々な思いを、
少しでも届けることが出来ればと思っています。

ありがとうございました。

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