« 2011年4月 | トップページ | 2012年2月 »

2011年5月30日 (月)

シスタークエスト2ファンブック発売日決定!

シスタークエスト2~魔剣の騎士と白銀の巫女~の
ファンブック発売が決定しました!
2011年6月20日です!

シスタークエスト2~魔剣の騎士と白銀の巫女~ファンブック

20110530

私、生田美和のインタビューもあります。
白夜書房さんのサイトで内容をご確認くださいね。

|

2011年5月29日 (日)

さざなみのみなもと

我が子の誕生日に来てくださったお義母さまが、
帰ることになった。

今日は、生憎の雨――。
「だいじなお孫ちゃんを雨にあてたくない」
という理由で、一緒にいる時間が削られていく。

それでも傘を持って我が子を抱いて、
お見送りに出た。

我が子は始終、不機嫌だった。
いざ、バイバイするだんになって、
我が子は手をふることもできなかった。

我が子を抱っこしての帰り道、
我が子は私の肩に顔をうずめて静かになってしまった。



生田「どうしたの? 眠くなっちゃった?」


首を振る我が子。



生田「ねえ、ママのこと好き?」

我が子「しゅき」


と、我が子は低い声でボソッと言った。



生田「パパのこと好き?」

我が子「ぱぱしゅき」

生田「横浜のじーじ好き?」

我が子「うん、じーじしゅき」

生田「横浜のばーば好き?」

我が子「よこはましゅき」

ちょっと、混乱してきたなー、と思いながらも、
我が子に聞いてみる。


生田「福島のばーばのことすき?」

我が子「ふくし、ばーばしゅき」

生田「みんなのこと好きなんだね」

我が子「うん、しゅきー」

生田「みんなもね、君のこと大好きなんだよ。
    だからね、またみんなで遊ぼうね」

我が子「うん」


肩の上、我が子がこっくりとうなずいた。

この寂しい気持ちは、誰かを好きだから生まれる気持ち。

誰かの存在が自分の心の湖にさざ波を立てることがあっても、
それが耐え難い大波になったとしても、
その気持ちがやってくる源を知れば、受け止められると思う。

生まれくる気持ちの意味が少しでも伝わればと思う。

|

2011年5月28日 (土)

生きる覚悟

我が子の誕生日に、お義母さまが来てくださった。



「クラスの半分位の子は疎開していなくなったんだー」

「授業は体育館でやってる。入学式は廊下で……。
 入学式が出来なかった学校もあるよ」

「新しい学年にあがったのに、その実感がないんだって、
 子どもたちが、もらしていたよ」

「町はゴーストタウンみたいだー」

「町では笑わないようにしているって人もいるよ。
 家族も家も、何もかも失った人がいるんだもの。
 逃げたくても逃げようがない人がいるんだもの。
 どんな精神状態か……」

子どもがお昼寝して、おとなたちだけになったとき。
お義母さまから、その「声」が聞こえてくる。
現地の人々が発したという、その「声」が――。

悲しいばかり、悔しいばかりだ。

己の非力さに歯噛みしながらも、
なんでもお話ししてくださいね、と言うと、
お義母さまは首を振った。



「今は、なにも話したくない。自分のことは、なあんにも――。
 なあんにもだ――」

お義母さまの語り口調は、福島の方言だ。
いつも素朴で優しさに満ちていた。

その優しい声が、
ご自分の言葉で語れなくなる日が来るなんて――、
私は思いもしなかった。



「もう、みんな、いつ死ぬかわからないんだ。
 いつ、(命が)ダメになるかわからないんだ。

 でも、負けはしないぞ。
 私はな、大好きな場所で、あの家で、生きてくっから」

それがお義母さんから聞こえてきた、
お義母さんを語る、唯一の言葉だった。

|

2011年5月21日 (土)

欲しい痛み

時々、思い立ったように自転車をこぎに行く。
公園の貸し出し自転車で、なんのてらいもないものだ。

運転免許を持たない私にとって、
自転車は唯一、自分の意志で自分を動かす乗り物だ。

子供を前カゴに乗せて、無心にペダルを踏み込む。
前へ、前へ、前へ――。

私の力で、私を連れて行け。
もっと遠くに。新しい景色の中に。

そうして即日、ひどい筋肉痛になる。
でも、この痛みがいい。

この痛みがある限り私は、なにかの助けを借りながらも、
自分の力で走ることをやめていない。
人生もこのようであれ、と思う。

|

2011年5月20日 (金)

RPGシナリオライターの育て方について

「若いヤツがシナリオを書きたいというから書かせたが、
 どうしようもなかった」

ということを開発現場で聞くことがあります。
なぜ、このようなことが起きるのでしょうか?


その若い開発者の方が、
ちゃんと現場で学んでこなかったからでしょうか?

私は、そうではないと思います。
問題はその若い開発者さんにあるのではありません。


今日はその話をしようかと思います。




(1)ものづくりの民は二種類

前述の若きシナリオライターの話の前に、
ゲーム開発に携わるひとたちの話をしたいと思います。


ゲームの開発現場には大きく分けて、二種類の人がいます。


ひとつめは、0から1をする人たちです。
この人たちは文字通り、無から有を生み出します。

このタイプの人たちは、たとえなんのヒントがなくても、
今描くべき事柄というのを常に持っており、
それを「作品」というひとまとまりの形に加工できます。
作家のようなひとたちです。


ふたつめは、1を10にも20にもしていくひとたちです。
このひとたちは生み出されたものを見て、
その良さをさらに伸ばしていきます。

今あるものの性質を見抜き、どのようにすれば効果的か、
作品の質を様々な部分で向上させていくことができます。
アレンジャーともいえるひとたちです。


開発現場に関わる人たちの殆どはこの、
アレンジャータイプです。

「今作は武器を取っ換え引っ換えするゲームらしいぞ」という方針に対して、
現場で培った技術を元に、「武器ごとに違った育成ができるかも?」
「技の習得システムを一新しよう」とか、
ネタをどんどん出して、それを実際に創っていく人たちです。


シナリオライターは、前者の作家タイプです。

これは、「今作は武器を取っ換え引っ換えするゲームらしいぞ」とか、
聞かないうちから、「戦うって、一体どういうことなんだろう?」とか
「武器を手にするって、どんな重みがあるんだろうか?」とか、
そこから発展して「命の重みとは」とかやりだして、
物事の本質や人間というものの姿をとらえようとする人たちです。


戦う遊びをつくるのが開発者たち。
そして、そこに生きるのは日夜現場で培った技術。

戦う意味を考えるのがシナリオライターたち。
そして、そこに使われるのはそのライターが、
日頃から悩んできた哲学です。




(2)シナリオへの誤解

最初の話に戻ります。

「若いヤツがシナリオを書きたいというから書かせたが、
 どうしようもなかった」

というお話です。

これはその若い開発者にだけ問題があるのではなく、
どちらかというと周囲の方の考え方に問題があります。

「シナリオなんて誰でも書ける」とか、
「ゲームを作ってれば誰だってシナリオが書ける」とか、
あるいは「作家性」を見抜く目がまったくない、
こういう事のほうがずっと問題です。

シナリオライターは前の項目で触れたように、
開発者とは違った観点で物事をとらえようとしているひとたちです。

どんなに開発現場で技術を積もうとも、
「武器の育成システムはこういう方向だと面白いかも」
という遊びの設計の感どころは養えても、
「戦うって、どういうことなんだろう?」なんてことに
ひらめきが宿る現場ではありません。

ひとつの物事を遊びの目で見るか、哲学の目で見るか、
ということは、まったく違います。

つまりRPGシナリオライターへの道は今のところ、
独学になります。




(3)どこで学ぶのか?

独学なんて孤独な道は厳しすぎます。

なにせ、RPGのシナリオライターは必要なくせに、
小説家などと違って登竜門となるコンテストもありません。

どこで力を測ったり、自分が学んでいることが
大丈夫かどうか判断したりすればいいのでしょうか?

そこで私がお薦めしたいのが、イベントプランナーになることです。
ただし前もってお断りしますが、イベント班に入っても、
シナリオライターとしての修練はほとんど期待できません。

それでもお勧めするのは、イベント班というのが、
どこからかやってきたシナリオをアレンジする部署だからです。

誰かが書いたシナリオを元に、必要な素材――
キャラ、モーション、音楽、マップ、エフェクトなどを割り出したり、
その素材を組み合わせて、より効果的なシーンを作ったり。

それはテレビや映画の監督に似た業務です。

そして、「演出」ということがあります。
ここがとても重要です。

役者さんがいないゲーム現場では、
キャラクターのモーションや表情を組み合わせて、
イベントプランナーが自身が、「泣く」とか「笑う」を作ります。

悲しいシーンであえて泣かさない。
その変わり、マップに雨を降らせたい。

悲しい人間が「俺は悲しいんだ」と台詞で言わないように、
多くの重要な感情はキャラの仕草や、マップの表情に委ねられます。
シナリオの指示にもよりますが、
イベントプランナーは、そういう判断ができるわけです。

まるで役者さんが演技をするように、
大道具さんが舞台装置を動かすように、
小道具さんが小物でシーンを引き立てるように、
そういうことが、自分で実現できる可能性があります。

そして自分自身もとなりの開発仲間たちも、
イベント部分だけは、一緒になって鑑賞できます。
つまりイベントだけはすでに、ユーザーの観るものと遜色ない形で
開発者もチェック出来、その感想がフィードバックされるのです。

 ※脱線しますが……
 ※鑑賞という言葉はゲームにおいては嫌われる言葉です。
 ※ただ観てるだけのイベントを軽んじる傾向さえあります。

 ※しかし、イベントで心を揺さぶることによって次のマップを、
 ※街へ向かうための通過点として軽い気持ちで行くのか、
 ※愛する人の仇を探しに復讐に燃えてするのか、全く違うのです。

このように、イベントプランナーほど、ユーザーに近い立場で
また開発者同士で、鑑賞まで出来るモノを作ってるひとたちはいません。

 ※ちなみに、自分たちはユーザーの味方である!という意識は
 ※すべてのプランナーが持つべきものです。
 ※そうした意識が欠けるとイベントは、俺様クリエータの
 ※自己陶酔発表会になりゲームを台無しにします。


イベントプランナーは、
監督であり演出家であり大道具小道具であり役者でもあります。
そこに脚本家である要素はあまり入っては来ません。

けれども、周辺技術の習得は、
シナリオを書けるようになったとき、大きな武器になるはずです。

またシナリオライターを外部に雇う現場ならば、
プロの文章に触れる機会が与えられます。
そこから学ぶことも多いでしょう。




(4)開発現場のできること

開発現場でシナリオライターが育成できないとしたら、
現場の人たちはどうすればいいのでしょうか?


私が所属していた開発現場では、イベントプランナーの現場から、
物語を書くことに才能がある人、見所がある人を育てて、
シナリオ寄りの仕事を振っていました。

私もそうして、鍛えられました。

私の場合は幸い、RPGでも大作が多かったために、
イベントやクエストに大量に触れる機会がありました。

そこで、「このダンジョンを何とかせよ」「このアイテムを何とかせよ」
などのお題が出され、面白い話を即興で考え、
しかも自分で組まねばなりませんでした。

新人にもイベントやクエストを丸ごと作らせる現場であれば、
小さなお話を面白く展開し、しかも他人に迷惑を掛けること無く、
自分の手で完結さる腕があるかどうかを、判断することができます。

つまり作家タイプでない人間を作家タイプに育てなおすことはできないが、
シナリオライターに向いた作家タイプを見抜く環境は作れる。

そして、見抜いたあとはその作家タイプに重点的に、
シナリオ寄りの仕事を任せていけば、
開発叩き上げのシナリオライターになる――ということです。


シナリオを誰でも書けると思っているような人が、
シナリオライターを選出していいものでしょうか?

ゲームなんて誰でも作れると思ってる人が、
ディレクターを選出していいものでしょうか?

ゲーム作りに打ち込む開発チームにとって、
それはほとんど内部テロみたいなものです。
それだけはやめてほしいと思います。




(5)さいごにRPGシナリオを書くために

さいごに、RPGシナリオライターを目指す方に向けて、
話を戻します。

イベント班でシナリオのアレンジを学びながら、
独学を進めてください。

見抜く目がある先輩方に恵まれれば、
自分が作家タイプであるかどうか?、判断していただけます。

そして、シナリオを書く力は開発現場では養えないので、
日頃からの思いを大切にしてください。

物の捉え方、ものの表現の仕方。
そういうものが、他人から見ても納得性の高い、
しかし「なるほど!」とか「おもしろいね」と思われる
新しい切り口のものであること。

自分というフィルターを通すことで、世界の見え方が違っていくこと。
そういうものを持っている人が、作家タイプになります。

RPGのシナリオを書きたい方は、
一度自分のものの捉え方、というのと向きあってください。
それは、自分という人間を知る面倒で、長い旅になります。

でも、そこにある人生観が、
新しい世界観を作り、新しい人物を生み出し、
ユーザーのみなさんに新しい物語を運ぶ力になるのです。

そして、努力して開発現場に入り、
作家タイプではないと言われたとしても、
そこで挫折を感じることはありません。

止め絵の漫画が優れたアニメーターや声優たちの手によって、
生き生きと動き出すように、
文字だけの小説が優れた監督と演出家と役者によって、
色鮮やかに生まれ変わるように、

イベントプランナーという仕事は作品に命を吹き込むものなのです。
世界には、あなたの力を待っている作品がたくさんあるのです。
その可能性は無限に広がっています。

|

2011年5月19日 (木)

あたたかいもの

好きな曲を聞いているとき、ふと、
この曲を作った作曲家も歌い手の歌手も、
もうこの世にはいないのだと思う。

何十年、何百年の時をこえて、
作品の中にとどまり、今なお輝く先人たちの情熱。
それが、現代を生きる私の心を照らし、あたためてくれているのだ。

|

2011年5月18日 (水)

机上の甘味

机の上がお菓子でいっぱいになってきました。

執筆が混んでくると、どこからかお菓子がやってきてくれます。
差し入れだったり、旅行土産だったり、おすそわけだったり。

私の机に、お菓子が増えてきたら、仕事が忙しいというわけです。
おいしい。でも忙しい。

末広製菓 パンの耳からうまれたお菓子

最近は、これにはまっています。
パン好きの私にはたまらないです。

|

2011年5月17日 (火)

言葉に出来ないこと

ETV特集 「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2ヶ月」

NHKオンデマンドで購入しました。
この番組で触れられたことに、私がどんな言葉を添えるのも、
意味が無いように感じられました。

見ることが出来る方には、見ていただきたいものです。

|

2011年5月16日 (月)

うたえGoing My Way

我が子はPerfumeが大好きです。
聞きかじったものを真似て、うたっています。

「ねぇ」の場合――。

「♪ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ。きょーは、どこ、いこーかな♪」

「チョコレイト・ディスコ」の場合――。

「♪とこ、れえと、いすこ! とこ、れいと、いすこ!♪」

短い単語を繰り返してくれるので、歌いやすいようです。
最近は、「VOICE」がお気に入りで、


「♪えーびしーで、いつものぼーいす!
 ぐっとくる、いっすんの、こいが~♪

 かがあく、ほーせき、みたい~に、
 つーうくー、なら~♪」


と、歌っています。
難しい言葉を、我が子なりの解釈で、
自分が分かる言葉に置き換えて、アレンジしているようです。

歌詞もそうですが、我が子の歌は、音程もリズムも危ういので、
元の曲とはだいぶ違うはずなのですが、
ちゃんと「VOICE」に聞こえてくるから不思議です。

聞く側の知識や気持ちも入り込んで補完されるから、
多少、うまく歌えなくっても、
その曲ならではの佇まいや雰囲気って、
ちゃんと漂うものなんですね。

歌う人と聞く人を、そっと近づけてくれる。
音楽っていいなあ、と思いました。

|

2011年5月15日 (日)

忘れられたバーベキュー

「昔さあ、親父が飯舘村の飯舘牛はすげーおいしいからって、
 家族でバーベキューに行こうって言ってたんだよね」


「いいですねえ~。どうでした?」


「いや、それが全然思い出せない。
 肉が強烈に美味かったのだけは覚えてる」


「もう~」


「はは……。でも、美和さんも食べたでしょう?
 ほら、一度、近所の人がわけてくれて……」


「覚えてますよ! すっごく美味しかったですねえ!」


「美味かったよなあ……」


「美味しかったですねえ……」



飯舘牛は、地域の誇れる特産品をつくろうと、
長年努力してつくりあげてきたブランドだと聞きました。

松阪牛より美味しいという評価を頂いたこともある飯舘牛。
またいつか、食べられることを楽しみにしています。

飯舘村観光サイト食事処

|

2011年5月14日 (土)

積み木遊び

20110514

「こちらスネーク」

「無事、潜入した。Over」


あいうえお積み木を即興で選びとって、
こんなことをやってくれる友人がいる。

子どもたちはもちろん、大喜び。

この瞬発的な想像力と、
ユニークをやっても許されるどころか、
「待ってました!」と言われるキャラクターはすごい。

人を楽しませるのが好きという純粋な気持ちがあり、
そしてそれを、ちゃんと待っている人たちに届けられる
センスの高さ。

彼女は、生粋のエンターティナー。
私の自慢の友人のひとりだ。

|

2011年5月13日 (金)

「新しい」を作ること

新しい作品に向き合う時、
それが新しい作品だと思っているのは開発者だけです。

ユーザーはまっ更な心で――
他のゲームも、アニメも、漫画も、ラノベも知らない、
まっ更な心で――、その作品に向かう訳ではないからです。

あれは見た、これは見た。
こんなのは知っている。あっちのほうがまとまってた。
そうなっていくわけです。


ゲームにおける「新しい」というものは、
まずはゲーム性で果たされるべきものなのかも知れません。

でも稀に、シナリオからも「新しいなにか」を考えて欲しい、
とわれる場合もあります。

そこで今回は、
「新しい」ということについて考えてみたいと思います。


シナリオで「新しいこと」、なんて言われてしまうと、
新しい物語をつくろうという気持ちになりがちです。

ですが、シナリオのパターンというのは、ほぼ決まっています。

これはシナリオ教本でも、よく言われていることですので、
詳しい説明はそちらに譲るとして、ここではとっても簡単に、
RPGの場合で説明をさせていただきます。


RPGでシナリオの新しさを考える場合。
奇をてらっていい、変わってさえいればいい、というのなら別ですが、
大衆娯楽として発売される作品には、望まれる形があります。

大抵の場合は、暴力表現は嫌われますし、
バトルにおいて人間を斬る場合は、
戦う意味がしっかりしていることが求められます。

そして全年齢対象であれば、
プレイし終えたユーザーの胸には感動が残ってほしい、
と言われるのです。


ここで言われる感動の形は、おおよそ決まっています。

欠損部分が補われること。
例えば、失われた絆や技術や価値観の回復。

できなかったことが、できるようになることもそうです。
もしくは、それができなくてもよかったのだと、
別な生き方に気づくことで心の傷が癒されることもあります。

あるいは、不幸が回避されること。
それによって、ささやかな幸せが取り戻されることなどです。


人間の根底にある価値観や幸福感、
誰かに喜ばれると嬉しいとか、好きな人と過ごしたいとか、
大切なモノを守りたいとか、そういったものが大きく変わらない限り、
新しい物語のパターンは生まれません。


だとすれば、物語だけでの「新しさ」は、ほぼないかも知れないわけです。
ゼロだとは思っていません。
物凄い天才が現れるかも知れないからです。


そこで、RPGのシナリオでの「新しさ」は物語ではない
他の要素で考えていくことになります。

シナリオライターが提案できそうな、他の要素とはなんでしょうか?

色々な開発現場があり、
またタイトルごとに方針も違うのでこれが絶対だとは言えませんが、
私は、「イベントシステム」「キャラクター」「世界観」の三つをあげたいと思います。

システムなんて持ちだしてしまうと、
とてもとてもシナリオライターが手を出していい領域ではない、
と言われてしまうかも知れません。

ですが、システムにあわせて
シナリオの書き方を変えていかねばならないように、
システムはシナリオとは切っても切れない関係にあるのです。

そして、ゲーム作りに携わる人ならば職種を問わず、
ゲームらしい考え方を身につけていて良いと思うのです。

そこで以下、順を追って、
「イベントシステム」「キャラクター」「世界観」の三つについて
説明していこうと思います。




(1)イベントシステムを新しくする

一番「新しさ」を追求できるのが、イベントシステムです。

イベントの起こり方、見せ方、
そしてゲーム内でのイベントの位置づけなどを
新しく考えていくことになります。


ここからは、私も大好きな育成ゲームの名作
「プリンセスメーカー2」を例に、お話を進めたいと思います。


「プリンセスメーカー2」は、簡単に言いますと、
天から授かった無垢な娘を、ユーザーが育てていくゲームです。
(詳しいことは調べてくださいね)


育成ゲームではあるのですが「プリンセスメーカー2」は、
RPGと良く似た作りになっています。

そしてこのプリメではイベントを
「主人公を育てる餌」として位置付けているのです。

イベントで、育成に優位なアイテムを発見したり、
新しく育成に役立つ人物と出会ったりするのはもちろん、
そのイベント自体でパラメーターが変化してしまうのです。


少し脱線します。

私は何故か感受性の高い娘を育てがちだったのですが、
感受性が高いと、「あちら側」にいる、
人ならざる者、見えてはならぬ者たちが、見えてきたりします。

お化けや妖精さんです。

学生時代、クラスきっての秀才君に、
妖精イベントの出し方をレクチャーしたのは良い思い出です。


話を戻します。
それで、プリメが秀逸なのは、このイベントひとつひとつが、
育成システムの一部であるため、
イベント自体に複数の意味があるということです。

例えば骸骨剣士というのがいて、
これは感受性が強い娘でも出会いますが、
腕っ節が強い娘でも出会ってしまいます。

骸骨剣士が娘の感受性(霊感)に反応して見えてしまうのか、
それとも、娘の腕っ節の強さに反応して出てくるのか、
その意味合いがまず違うわけです。

腕に自信がある娘なら戦うことができますが、
感受性が強いだけの娘なら逃げ出してしまいます。

こんなふうに、自分が育てた娘の性格や能力によって、
そのイベントが様々な味わいを見せてくれるのです。

今まで鍛えてきた経験値が、新しいドラマを呼び、
そのドラマにおける経験がまた、新しい経験値になっていく。

そこが今なお色あせぬ魅力であり、「新しい」ものでした。


イベントシステムからシナリオを新しく考えなおしていく方法は、
シナリオライターが提案するには大きな内容です。

ですがそういうことは常日頃から考えて、
口にしていかないと、チャンスも巡ってきませんし、
万が一よい運気に恵まれても、考えが追いつきません。

そんなわけで、RPGのシナリオでなにか新しくしたい、
という場合、イベントシステムのあり方から考える姿勢も、
忘れないで欲しいと思うのです。



(2)キャラクターを新しくする

シナリオライターから、キャラクターを提案するのは、
イベントシステムを提案するよりはだいぶハードルが低いように思えます。

しかし、実際はそうでもありません。


新しいキャラというのは、なにが新しいのでしょうか?

外見的なデザインもそうですが、
ゲームで新しいといえば、やはり遊び方になってきます。

つまりキャラクターも、システムとは切り離せないものなのです。


そのキャラクターを操作して体験できる遊び、
そのキャラクターと冒険を共にすることで味わえる遊び。

それが、今までにない切り口を持っていれば、
そのキャラクターは新しいキャラだと認識されるでしょう。


例として、ここではゲームを離れて漫画を例に出したいと思います。
「EAT-MAN(イートマン)」という漫画を、ご存知でしょうか?
吉富昭仁先生の傑作です。

主人公は冒険屋の大男なのですが、
彼は悪食で、いつもネジなど機械クズを食べています。

彼にはひとつだけ、ずば抜けた特殊能力があり、
食べきったもの(主に機械兵器)を体内で再構築し、
自在に召喚することが出来るのです。

大ピンチの、ここぞというときに、
ドンッと巨大メカが召喚されるシーンは胸が躍るものでした。


彼がRPGの主人公だったら、どんなゲームになるでしょう?

バトルの他にも、食事をシステムとして持ちたくなりますよね。


こんなふうに、「新しい」キャラクターというのは、
やはりゲームシステムにまで食い込んでいく、アクの強さを持っているのです。


しかし、ここがネックになります。

キャラはユーザーの分身であるべき、と考えるゲーム開発者にとっては、
そんなアクの強いキャラはユーザーに嫌われてしまうのではないか?、
そんな遊び方は既存のRPGにはなかったのでユーザーがついて来られないのではないか?、
となることがあるのです。

それで、無色透明のキャラクター。
平均的なバトル的要素を持ったキャラクター。
せいぜいやれて、武器が大きいとか、武器が沢山あるとか、
素早く動けるという感じの主人公になっていくのです。


このあたりは作品によるので、
作品としての新しさを取ることも、ユーザーとの一体感を取ることも、
どちらも大切で、どちらがあっているとは一概には言えません。


しかし、ファンタジーにやりつくされた感がある今、
今までにない「新しい」キャラクターがおりなすシナリオは、
ユーザーの皆さんには待たれているのではないかと、私は感じています。



(3)世界観を新しくする

イベントシステム、キャラクターと、
シナリオライターからの提案は望まれないこともあると書きました。

では、シナリオライターから新しい世界観を提案することはどうでしょうか?
こちらは前述のものと比較すると、望まれている部分ではあります。


剣と魔法のって謳い文句はもう飽きた、とか、
いつまで魔王倒さなくちゃいけないのかな、という話が
開発からも聞こえてくるぐらい、
ファンタジーにはやりつくされた感があるのです。

世界観を新しくすることは、
開発側からも求められているのではないかと、私は感じています。


しかし、新しい世界とはどんなものでしょうか?

では、具体的に、新しい世界はどんなものでしょうか?

ここではアニメーションを参考にして話をしたいと思います。

宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」です。

説明の必要もないほど有名な作品かと思いますが、
簡単に、その世界観のみご紹介させていただきます。


はるか遠い未来。

かつて人類は高度な文明を誇っていた。
人類は自然を破壊し、資源を消費し、大量のゴミや有毒物質を海へと垂れ流していた。海に溜まった毒は長い年月を経て、生態系を狂わせ、巨大な蟲たちを生み出した。

そして、今や大地と大気はその毒の海と生態系に侵食され、人類は緩やかに滅びの時を待っていたのだった。


これはもう文句なく、新しい世界ですよね。

あの作品をゲームにしたらどうなるでしょうか?

蟲たちの気配を感じられる雰囲気、胞子が雪ように舞い上がる風情。
きっとそこには、グラフィックの美しさだけではない新しさが宿るでしょう。

胞子の流れから風の向きを感じ取り、
風に乗るちょっとしたアクションかも知れませんし、
腐海の多重構想を縦に移動するマップ構成や、
ユーザーがまさにあの世界を冒険していると感じられる、
色々なアイデアをマップに盛りこんでいくことになるでしょう。

アクションRPGのように本格的にするのか、
それともRPGとして触れるマップギミックを丁寧につくりこんでいくのか。

これは、もう新しい事だらけのはずです。

ゲーム開発者としてここまでメッセージの高く、
緻密な、生き生きとした世界を任されることがあったなら、
それは胸踊ることだと思います。

しかし問題は、これを文字だけで書き起こすということです。

イラストを描いて説明する、イメージとなる写真を集める、
など、イメージの手助けとなる資料を揃えることは出来るかも知れません。

マップギミックやマップ構成の説明には、イラストは有効ですし、
私もイラストを描いたり、写真を加工したりする方です。

しかし、これはあくまでイメージを補強するための手助けです。

これから描き出そうという世界が新しければ新しいほど、
そこは既存のグラフィックに頼るだけでは表現できないものになっていくのです。


となると、そこは文章での勝負になります。

そして世界観というのは読み手にとって、
キャラクターほどにはイメージが沸かないため、
新しい世界観を伝えるには、色々な言葉を尽くしていくことになります。

ナウシカの腐海に代表されるように、
ルールに縛られた世界、何かを成すには代価を求められる世界。
そんな世界観が新しい遊びを生む可能性がありますが、
それを長々と説明しても、読んでももらえないことが多いです。

ですので、読み手や聞き手が、ぱっと目にしたとき、あるいは耳にしたとき、
「これは気になる!」と思わせる、心が走り出すような言葉が必要になります。

この心が走るような言葉は、
映画のキャッチコピーや、舞台やドラマの宣伝文句が参考になります。

心が走るような世界の様子を伝える言葉。
そこから、逆に世界観を考えるという手もあるでしょう。




以上、ざっくりとしたものですが「シナリオでもなにか新しいことを」
と言われたときの、RPGらしい考え方を書きだしてみました。

キャラクターも、マップも、遊びから切り離されて、
デザインだけで考えていると絵としての完成度はあがるかもしれませんが、
ゲームとしての新しさは、なかなか盛り込めなくなってしまいます。

そしてこの、「絵が上がってから遊びを盛り込むのは難しい」という、
不可逆な流れが、途中参加の開発者やシナリオライターに
難しい決断を迫ることがあります。


シナリオライターが召喚されるのは、
ゲーム性も、マップも、キャラクターも決まった後かも知れません。
多くの場合はそうでしょう。
そして、「物語だけでも斬新に」なんて言われるかも知れません。

でも、新しいゲームを、新しいものとして作っていき、
ユーザーの目にも、「これは新しいなあ」と思わせるためには、
絵になる前、形になる前の準備段階が、とても大切なのです。

|

2011年5月12日 (木)

ママの誘導尋問

我が子と買い物に行った帰り道。
我が子が案の定ぐずり始めた。

ウィンドウショッピングも、公園も、
楽しいことはもう終わりだと分かってしまうのか、
帰り道というのは、ぐずることが多い。

陽も陰ってきて、
人々が影を引きずり家路を急いでいる様子も、
少し寂しい感じもするのかもしれない。

今日はスーパーで買ったバナナをあげて、
気を紛らわせることにした。


生田「バナナ、どうぞ~」

我が子「うん、ばなな~」


美味しそうにバナナを食べる我が子。
ご機嫌が治ったみたいだ。


生田「バナナ、おいしい?」


我が子「うん、ばなな、おいし~」


生田「どう? 甘い?」


我が子「うん、どう、あまい~」


私の言葉を繰り返し、もくもくとバナナを食べる我が子。
ちょっと面白くなってしまって、つい。


生田「ばなな、イエーイ!!」


我が子「ばなな、いえーい!!」


ちょっと悪かったなあと思って、


生田「ごめんね~。ママふざけちゃった~」


と謝ると、


我が子「ごめんしゃーい」


と一緒に謝る。


生田「君は悪くないのよ。謝らないでいいのよ」


我が子「うーん???」


我が子はまだ言葉をモノマネしてしまう。
それでも、そこには我が子らしい気持ちが感じられる。

あとどれくらい、こんなおバカなやり取りできるかな、
などと思いながら、少し先の未来を思う。

こどもは日々成長し、一日、一日と、親から離れていく。
けれど、我が子が十分に成長し、
自分の言葉で自分の気持ちを伝えられるようになっても、
それが私たちの距離を遠ざけるものではないはずだ。

未来の帰り道にも、きっと
大きくなった我が子との会話が待っている。
その日を楽しみにしていよう。

|

2011年5月11日 (水)

Twitterのいいところ2

Twitterは去年の5月にはじめました。
今年のTwitterには、また違った魅力を感じています。

(1)文通っぽい
(2)ライブ感
(3)やっぱり140文字

以下、それぞれの項目についての理由です。


(1)文通っぽい

私は執筆の合間にTwitterをしています。
その関係で、お返事がすぐにはできない場合もあります。

幸い私がやり取りさせていただいている方は、おおらかな方が多く、
文通にも似た、のんびりとしたやりとりをさせていただいています。

Twitterは大きなチャットルーム、というイメージだったのですが、
こうして個人個人でゆったりとやり取りする出来るのもいいですね。


(2)ライブ感

大勢でみんなで集まって!、という企画を体験しました。
こちらは(1)のスローペースとは正反対の、
「今」という時にこだわった楽しさですね。

いつそうした企画に出会うか分からないことも含めて、
その場に居合わせた喜びが感じられます。

イトケンさんの不定期な生演奏&生歌は、私も毎回楽しみにしています。


(3)やっぱり140文字

Twitterは色々な方が、
140文字という文字制限の中でおしゃべりしている場所です。

140文字のつぶやきを続けて長文とする事もできますが、
そこには140文字という区切りがあるので、
四コマ漫画にも似た、小気味良いテンポが生まれています。

今の人たちは時間や情報に追われていて、
本当に欲しいものや、自分が好きだと思うものに
なかなかたどり着けないのではないでしょうか?

そうした中で、この「140文字でおしゃべりしよう」
という場所は、短い言葉と時間でやりとりができるので、
時代の忙しさにあっている気がします。


以上、私が今年、Twitterに感じたいいところです。
Twitterはツールなので、色々な使い方があると思います。
きっと私が感じる以外の楽しさも沢山あるでしょう。


ちなみに去年感じたTwitterのいいところはこちらです。
2011年5月21日twitterのいいところ

|

2011年5月10日 (火)

夫婦レベル16

我が子を背負って買い物していたら、
翌々日、ひどい筋肉痛になってしまった。


生田「もう歳ですね~」


と、肩を揉みながら私がため息を付いていると、


主人「そんなことないよ」


と、主人。


生田「でも、二日遅れですよ?」


主人「いや、こういうのは気の持ちようだから。
    ネガティブなこと言ってると、ますます落ち込んじゃうよ。
    嘘でも明るいこと言わないと、ホラ」


生田「ええっと……じゃあ、こんな感じ?

    今日も私ったらピッチピッチ!

    まるで、二十代みた~い!!


主人「そうそう、その調子」


生田「……」


主人「どした?」


生田「余計、虚しい


若干凹んでいると、


主人「いや、本当に美和さんはピチピチしてるよ」


生田「ほんとう?」


主人「ピチピチ、ピチピチ……


   すっごい跳ねてる感じがする



あなた!


ソレ、魚類のピチピチですよね?


擬音ですよね?


女の子の若々しさを表現する


ピチピチじゃないですよね?


|

2011年5月 9日 (月)

時を超えた給料明細

仕事に行く主人を見送りに玄関に立つと、
急に主人が声をかけてきた。


「俺、実は親父の給料知ってるんだ」

「え……?」


それは私にとっては意外な言葉だった。
主人のお父様が他界したのは、
主人が学生時代のことだったと聞いていたからだ。
学生の息子に、自分の給料について話すものなのだろうか?

不思議に思っていると、主人が仕事のカバンを指さした。
甘茶色に染まった四角いかっちりとしたカバンは、
主人の仕事用のカバン。
それは、お父様の形見の品だった。


「ここに入ってたんだ、給与明細――」

「そうだったんですか……」

「親父、こんな薄給で、身を壊すほど働いて命を縮めて……。
 そうまでして、俺たちを養ってくれてたんだな」


主人はカバンを持つと、私を抱きしめた。


「君より長生きすることは、結婚前の約束だったから果たすよ。
 でもね、俺はもっともっと頑張る。そうしなきゃならないんだ」


あの給料明細は、きっとお父様からのメッセージなのだろうと思った。
成人し、家庭を持った未来の主人のために、
こういう形で「頑張れ」と言ってくれているのじゃないかと思う。
誰かを思う気持ちは、時を超えて届くのかもしれない。

|

2011年5月 8日 (日)

お酒解禁

授乳が終わってお酒が飲めるようになりましたが、
お酒を呑む機会があまりなかったのでした。

それが今日やっと、ファジーネーブルを飲めました。

酔って変なこと喋ってないかしら?とか、
若干気にしながらも、いっぱいお喋りさせていただきました。
こんなに楽しいお酒は久しぶりです。

一生で出会える人って、どれくらいいるのかわからないけれど、
幸い良い出会いに恵まれている気がします。

好きな人たちに囲まれて、
皆さんに喜んでもらえる楽しい作品を作って暮らせたらと思います。
人生も作品も、非難や否定ばかりじゃ苦しいから、
良いもの良いと認め合える絆を大切に、
信じるものを積み重ねていきたいです。

|

2011年5月 7日 (土)

シナリオライターは……

シナリオライターは
ユーザーに「○○したい!」と思わせる仕掛けを作る人です。

心を揺さぶるきっかけを与え、考えてもらう隙を作り、
そして行動にうつってもらえるようタイミングを譲る。

ユーザー=主役の皆さんが楽しく冒険できるよう、
バトルやマップなどにまたがって様々な配慮をする裏方です。

|

2011年5月 6日 (金)

ことばのむこう

おやつに一番大きなクッキーを手にして、


「これ、おーきしぎるー!(これ大きすぎる!)」


と、笑う。

お兄ちゃんたちと一緒で楽しかったね、と言うと、


「おにーた、いっしょ、うーむ、うーむ……。
 (おにーちゃん、いっしょに……)」


と、言葉につまる。


お花を見ると、


「ぱんぽぽー!(たんぽぽ!)」


でも、本当はつつじ。


どうして、大きすぎるクッキーを手にするのか?
どうして、楽しかったことなのに言いよどんでしまうのか?
どうして、つつじがたんぽぽなのか?


それは、そこに気持ちがあるから。

大きなクッキーを手にするのは、ママと分けて食べたいから。
言いよどんでしまうのは、遊んだ記憶があまりにも楽しすぎて、
うまく言葉に出来なくて、もどかしいから。

つつじがたんぽぽになるのは、
たんぽぽの中でお友だちと遊んだのを覚えているから。


子どもを見ていると、
言葉はそこにあるものだけを指しているのではないとわかる。
背後には、大切な思い出が重なりあっている。

正確に気持ちを伝えることの大切さを学んでいくに連れ、
こうした会話も、言葉通りのものに置き換わっていくのかもしれない。
そうして、私たちはおとなになったのかもしれない。

大人同士の会話では忘れてしまうことを、
子どもたちは教えてくれている気がする。

|

2011年5月 5日 (木)

お菓子の山のその心

あるお仕事で現場に行くと、
なんと大量のお菓子が用意してありました。


「生田さんが、お子さん連れでいらっしゃっても
 よいようにと思いまして」


そうおっしゃる担当者さんの笑顔を見て、ハッとしました。
そんな風に気を配っていただけたのは、はじめてだったからです。


いつも子どもをあずけて仕事に出ているのですが、
以前一度だけ、新作発表会の際、
子どもと一緒に行ったのを覚えてくださっていたのでした。

その日は子どもを家族に見てもらっていたので、
せっかくのお心遣いを無駄にしてしまったのですが、
お仕事が終わった帰り際に、


「お菓子、ぜひ、お子さんにお持ちください」


と、大量のお菓子をおみやげに持たせてくださいました。

私の帰りを首を長くして待っていた我が子は、
おみやげを見つけて、目をキラキラさせていました。

育児と仕事の両立は大変ですね、と言われることはあっても、
こんなふうに行動で応援を受けたのは初めてでした。
本当に嬉しく、ありがたいことでした。

いい仕事の背景には、必ずいい出会いがあります。
素敵な方々との出会いがたくさんあったそのプロジェクトは、
作品も、ご縁も、なにもかもまるごとが私の自慢です。

是非とも、このメンバーで、また――。
心からそう願っています。

|

2011年5月 4日 (水)

休日のひとこま

数ヶ月前に頼んでいたレンジ台がやっと来ました!

今のお部屋に引越ししてから、
困っていたのがレンジの置き場でした。

前のお部屋ではキッチンにかなり大きな出窓があり、
その上にレンジを置くことができたのですが、
新しいお部屋ではそうした+αのスペースが無く、
レンジや炊飯器の置き場がないのです。

急遽、我が社のサーバーさんが
鎮座していらしたラックを棚を改造して、レンジ台にしました。

おかげで、サーバーさん、家電話、プリンターなどなど、
我が社のサイバー家電は、ことごとく隅においやられていました。


床面積が限られている場所では、
縦に空間をとることで収納力をアップするしかありません。

そこでレンジ台の購入となったわけです。


ちょっと脱線します。

限られた空間のやりくりは、
ゲームシナリオの設計にも通じるものがあります。

限られたイベント数の中で、
いかに複数の情報をスムーズに積み込むか?
という部分です。

今回頼んだレンジ台も、パッと見ただのレンジ台ですが、
そこには炊飯器も置け、スムーズにご飯をよそうことができ、
保存食料置き場としても期待できるわけです。

ひとつのイベントをひとつの情報(レンジ置き場)だけで消費せず、
複数の情報を持たせ、高機能な設計を目指します。

伏線はりなどは、メイン情報を出すその裏でひっそりとやります。
これで、イベントひとつひとつに奥深さが確保されるわけです。

家事の中に潜む、「ありものでソコをなんとか!もっと快適に!」
というやりくり感覚は、シナリオ作りに通じるものがあるのです。

脱線終わりです。


とにかく、今の我が社の問題は、
サイバー家電たちの居場所がないことでした。

企画書やシナリオをプリントアウトするたび、
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

それが本日、レンジ台が来たことで、サイバーラックが復活!

……したのですが、肝心のレンジ台の方は組み立て家具なので、
これから全部の部品を広げて、組み立てて、設置して、
配線周りを整備しなおして、家電全部を接続しなおすという
極めてヘビィな作業が待っているわけです。

これは主に主人が担当します。

私は、興味津々の我が子を遠ざけながら、
コーヒーやおやつを用意して、後方支援にまわっています。

どこに行くわけでもない一日でしたが、
こんな、なんでもないのどかな休日も大好きです。

|

2011年5月 3日 (火)

すべりだいの不思議

先日、我が子を連れて公園にでかけました。
お天気だったので、たくさんのお子さんが遊んでいました。

こちらの公園は鉄棒やブランコなどの遊具が豊富で、
動きたいざかりの子どもたちは、歓声をあげて楽しんでいます。


「うーむ、すべーだい!(すごい、すべりだい!)」


と、我が子も大はしゃぎです。

滑り台というのは、不思議な遊具です。

滑り台は一見、シーソーなどの
一緒に遊ぶおともだちが必須の遊具と違って、
ひとりで遊べるように見えますが、
実はそうではないんです。

たとえば階段を登る、そのわずかな間にでも、
子どもたちは実に様々なやりとりをしています。

階段を登るというのは赤ちゃんや小さい子どもたちにとって、
非常に個人差が出るところです。

ある子はさっさと登れますし、
ある子はお母さんが支えないと危なっかしい。

うちの子は、人が大好きなのに、
とてもシャイなところがあるので、
後ろから誰かが登ってくると、嬉しいくせに恥ずかしくなって、
階段から降りようと、逆流してしまう時期がありました。

そんなわけで、この階段のところで、
子どもたちは自分の順番が来ても、
前の子がつっかえていたり、後ろの子にせっつかれたりと、
自分のペースで登れないことがあるわけです。

そして、滑るところにくると、また色んなことが起きます。

さーっと滑る子もいれば、
怖くてなかなか滑れない子がいます。

お母さんが見守ってくれないといやだなあということで、
関心を買おうと、しばらく籠城する子もいます。

周りの子に、自分はこんなすごいことが出来るんだよ、
と様々な滑り方を披露し始める子もいます。

また前の子と意気投合して、その子の気持ちはともかく、
とにかく一緒に滑りたくなっちゃう子もいます。

ここでも子どもたちひとりひとりの気持ちが、
素直に行動に現れてきて、色々なことが起きています。

でもここで注目すべき点が、
滑り台という場所が、お母さんたち保護者が
さっと駆けつけられる場所とは違うという点です。

もちろんお母さんたちも一緒に登ることもできますが、
滑り台が耐えられる重量の問題があるので、
基本的には滑り台の上は子どもたちだけの空間です。

つまり、滑り台は子どもたちだけの社会なのです。
滑り台という共有空間をみんなでどう使うのか?、
それを、子どもたちは子どもたちだけで考えているんです。


数ヶ月前までは、滑り台を怖がって、
私が滑り台に身を乗り出し、両手を広げて、
途中で受け止める用意があるよ、ということを示さないと、
まず滑ることができなかった我が子も、今月はガンガン滑っています。

そして我が子は、階段を譲りあい、
小さな子がなかなか滑り台を滑らなくても、
その子が頑張る姿をじっと見つめて、滑り終わるのを待ち、
自分も滑り終わると、にこにこしながら
前の子の後をついて行くようになりました。

いつの間にか、「どうぞ」とか、「ありがとー」
なんて言いながらです。

ここまで滑り台を共にしてくれた優しいお友達たち、
我が子が怖がっていた頃、
順番を待ってくれたり、譲ってくれたりした
少し年上のお姉ちゃんお兄ちゃんたち、
そして我が子が滑れたとき、
明るいお声で褒めてくださったお母様たち。

みなさんの気持ちがなければ、
我が子のこの成長はなかったと思います。
感謝、感謝です。

滑り台はいいものです。
みんなで仲良く使って、一緒におとなになってね、
と思います。

|

2011年5月 2日 (月)

吾もまた終わりなき旅路を往く無名の旅人也

今日は、先輩とお食事に行ってきました。
長年尊敬している先輩です。

この先輩の凄いところは、「自分はこうだった」という体験談の後に、
「でも、生田さんの場合はどうだろうな?」と
やんわりとしたパス出しをしてくださるところです。

結局、成功者であろうとなかろうと、
その人の人生はその人のオリジナルのもので、
他人がどんなに真似したって、
同じような成功者に成れるかどうかなどわからないのです。


 ――誰もが、唯一無二の人生を送っている。
 ――だから、他人への助言というのは難しい。


この先輩もたぶんそれをご存知でなのだと思います。

だから、私へパスを返してくださるのでしょう。
そして、「応援してるよ」「一緒に頑張ろう」と軽く背を押し、
見守ってくれているのだと思うのです。

これぞ先輩の鑑!というような方なんです。
先輩の話をすると友人たちには「羨ましい~」と言われます。
これは私の自慢です。


「俺は後輩を育てたい」


そう先輩は言います。

自分が歩んで経験してきたことを、後輩たちに教え、
後輩たちには自分の歩んできた道のりの、さらに先に行って欲しいのだと。

目の前の霧が晴れ、さあっと視界が開けていくような、そんな気がしました。

先輩から後輩へ、後輩からそのまた後輩へ。
途切れること無くバトンを繋ぎ、面白いこと、楽しいこと、
そういうものを作り続けていく道のり。

時を超えて、個を超えて、受け継がれていく物語――。
未だ見ぬ地平へ向けて――。
命をつなぎあって、歩いて行く名もなき旅人たちの群れ――。

そのひとりに、私もなりたいと思いました。

どうしても、この先輩と一緒に仕事をしなくてはならない。
決意を新たにした今日という日でした。

|

2011年5月 1日 (日)

変わる力

変化を望む人にはふたとおりある。
他人を変えようという人と、自分を変えようという人だ。


他人を変えようという人は他人と戦う。
変えたいターゲットであるその人に近づき、
こうする方がもっと良いのだと、理想や夢を語る。


自分を変えようという人は自分と戦う。
理想の自分を目指し、今まで築きあげてきた自分を変えていく。
孤独で苦しい戦いだ。


今ある形から、違う形へ。
新しいものを追い求める道のりには、常に苦しみが伴う。
それならば私は、自分で自分を変えていく苦しみを取りたい。

赤の他人に対し、
「私の都合ために、苦しいだろうがこのように変わってくれ」
などと言うことは、私にはちょっと想像ができない。


自分で自分を変える。自分を更新する。
そうすれば、自分を通して触れる世界も変わってくる。
新しくなっていく。

そうして存在は生まれ変わる。
自分を変えることを拒んで、世界を自分ごと停滞させたくはない。

|

« 2011年4月 | トップページ | 2012年2月 »