パエトーン
原発について、はじめて考えたのは、
山岸凉子先生の「パエトーン」を読んだ時だった。
私は小学生だった。
当時の私は、少し怖いと思いながらも、
国が作ろうというものなのだから、きっと安全なんだろうと、
日本の技術力を信じていた。
今の子供たちは、きっとそうは思わない。
「今」という時も、「自分」という存在も、
切り離されてぽつんとそこにあるわけではない。
過去から未来へと連なる流れの中にしか、
「今」という時はなく、
親から子へ、子から孫へと、受け継がれる血の中にしか、
「自分」という存在はありえない。
未来からなにかを奪うことは、
「今」を生きる「自分」の利益だけを追求するから行える。
だが、そんな切り離された瞬間的な利益に、
何の意味があるというのか?
世界を豊かにすることで、世界のなにかが満たされて、
はじめて人は何かを得られるようになるのではないか?
自分の心というものは、他の誰かが心から喜んで、
はじめて満たされるのではないか?
自分ではない何かが満たされることが、
結局、めぐりめぐって自分を満たすのではないのか?
いかに奪うか?、というようなことではないのだ。
未来の世界や子供たちに何を残せるか?、なのだ。
「パエトーン」をもう一度読みたいと思っていたら、
無料公開されていた。
読み返して、子供時代を鮮明に思い出した。
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