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2011年4月 3日 (日)

パエトーン

原発について、はじめて考えたのは、
山岸凉子先生の「パエトーン」を読んだ時だった。

私は小学生だった。

当時の私は、少し怖いと思いながらも、
国が作ろうというものなのだから、きっと安全なんだろうと、
日本の技術力を信じていた。

今の子供たちは、きっとそうは思わない。


「今」という時も、「自分」という存在も、
切り離されてぽつんとそこにあるわけではない。

過去から未来へと連なる流れの中にしか、
「今」という時はなく、

親から子へ、子から孫へと、受け継がれる血の中にしか、
「自分」という存在はありえない。

未来からなにかを奪うことは、
「今」を生きる「自分」の利益だけを追求するから行える。

だが、そんな切り離された瞬間的な利益に、
何の意味があるというのか?

世界を豊かにすることで、世界のなにかが満たされて、
はじめて人は何かを得られるようになるのではないか?

自分の心というものは、他の誰かが心から喜んで、
はじめて満たされるのではないか?

自分ではない何かが満たされることが、
結局、めぐりめぐって自分を満たすのではないのか?

いかに奪うか?、というようなことではないのだ。
未来の世界や子供たちに何を残せるか?、なのだ。

「パエトーン」をもう一度読みたいと思っていたら、
無料公開されていた。

潮出版社無料WEBコミック特別公開「パエトーン」

読み返して、子供時代を鮮明に思い出した。

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