« 未だ見ぬ笑顔 | トップページ | なんでもない風景 »

2011年3月26日 (土)

いんでぃぺんでんすでい

去年の夏、我が子が卒乳した。
『卒乳』とは、おっぱいを吸うのを、
赤ちゃんの意思でやめることを言う。

一方、おっぱいをやめさせるのには、
『断乳』という方法もある。

こちらは、母親の意思でおっぱいをあげないことで、
赤ちゃんにおっぱいを諦めさせる方法。

およそ一週間で、赤ちゃんはおっぱいに頼らなくなり、
食事による栄養補給のみでよくなるという。

でも断乳の場合、
赤ちゃんがおっぱいを求めて激しく泣くので
お母さんや家族には、覚悟がいるという。

こんなにおっぱいを欲しがっているのに……、
と辛くなってしまうらしい。

ご家庭それぞれの事情や考え方があるので、
どちらがダメとか優れているとか言うことはない。
自分と赤ちゃんにあった方法が一番いい。

私は、赤ちゃんの意思を確認できる
『卒乳』の方に惹かれて、
赤ちゃんの卒乳を待つことにした。

しかしそれは、思ったほど容易いことではなかった。

卒乳派VS断乳派、お母さんVSお父さん――。
おっぱいを巡る当時のささやかな戦いを、
ちょっとだけ振り返っておきたい。


我が子は予定日より早く生まれ、身体が小さかった。
あと少し体重が足りなかったら、
危なかったかも知れないとも言われていた。

そんな小さな身体で生まれてきた赤ちゃんが、
生まれたてほやほやで看護師さんにだっこされて
やってきたとき、すぐに私の胸にしがみつき、
なんと母乳を吸い始めた。

生田「すごい! もうおっぱい吸ってる!」

看護師さん
  「みんなそうなんですよ。
   本能でわかるんでしょうね」


はじめて赤ちゃんに触れて、
体が震えるほどの感動だった。

お乳なんか今までちっとも出たこと無いのに、
赤ちゃんが生まれた途端、乳が溢れた。

母子のつながりは心だけではなく、
身体的なものもあるらしい。

おっぱいを吸う赤ちゃんの顔を見ながら、
「やっとあえたんだ!」と思った。
世界でたったひとりの私の赤ちゃんだ。

入院中、新米お母さんには、
赤ちゃんにおっぱいをあげる授乳訓練が行われる。

私がお世話になった病院はとっても丁寧で、
その頃、ちょうど赤ちゃんも少なかったこともあり、
つききりで指導していただいた。

赤ちゃんがおっぱいを欲しがったとき、
お母さんはすぐおっぱいをあげなければならない。

赤ちゃんは体力がなく、
一度にいっぱいお乳を飲めないので、
生まれて数ヶ月の間は、
授乳回数は一日、15~20回にもなる。

ほぼ二時間おきにおっぱいを求めて泣く
小さな赤ちゃんを中心に、
世界は慌ただしく時を刻みはじめた。

だが、生来の不器用さのせいで、
私は洋服をサッとめくって、おっぱいを出す、
というのが難しかった。

すると看護師さんが、リボンを結んでクリップをつけ、
服をめくりあげてすぐ止められる、
便利アイテムをつくってくださった。

だが今度は、おっぱいをサッと出せても、
赤ちゃんの口を私の胸の高さまで持ち上げて
支えていることができない。

看護師さんは、私に足を使うようにと教えてくださった。

病院での授乳は、ベッドに腰掛けてするのだが、
まず、赤ちゃんを抱っこしている腕を支えるため、
自分の肘を膝の上に乗せる。

そして赤ちゃんを腕だけではなく、
足の力も使って、膝から上へ持ち上げるようにして、
支えるようにするのだ。

でも、赤ちゃんは小さいので、
膝の位置をもっと高くしないと、
胸の高さまで赤ちゃんの口が届かない。

そこで看護師さんは、
分厚い少年週刊誌などを持ってきて下さり、
私の足の下に踏み台のように置いてくださった。

これで私の膝の位置が高くなり、
その膝に乗っけた肘の位置も高くなる。

そうして私はようやく、
赤ちゃんを胸の高さで支えることが
できるようになった。

ところが、今度は赤ちゃんに
おっぱいをふくませることができない。

視力が弱く、まだまわりが見えていない
赤ちゃんは、感覚だけでおっぱいを探し、
小さな口をぱくぱくさせる。

そこへ乳首をくわえさせねばならないのだが、
角度が合わず、どうしてもふくませられない。

そうこうしているうちに、
体力がない赤ちゃんは泣き疲れ、
そのまま眠ってしまう。

空腹の眠りは浅く、
赤ちゃんはひもじさに起きて、すぐまた泣く。

僅かな体力の全てを使って、
一生懸命、おなかがすいた!と叫んでいるのだ。

お腹をすかせて泣いている我が子に、
まだ泣くということでしか自分を表現できない、
その我が子に、うまく乳をあげられないのだ。

私は焦った。
母乳をあげようと、何度もチャレンジしたが、
どうしてもできない。

赤ちゃんの口が胸に届くように
だっこしようとするのだが、手ががくがくと震え、
赤ちゃんを支え続けることができない。

この時初めて私は自分の体が
普通の状態ではないのだと知った。
出産のせいで、激しい関節痛が体中にあり、
手足に力が入らなかった。

何度目かの挑戦の最中、
見かねた看護師さんが粉ミルクを溶いた。

看護師さん「また明日がんばりましょう」

生まれて間もない我が子が
母親に望む唯一の事を果たしてあげられないのだ。
これは大変に辛い経験だった。


以後、赤ちゃんにはミルクをあげるようになった。
空腹のまま寝かせないためだ。

退院してからも、ミルクに頼る日が続いた。
ミルクを作るたび、泣きそうになった。

そして赤ちゃんを支えられない私の腕に、
赤ちゃんが預けられることは少なくなっていった。

お母さんを休ませるため――。

それはありがたい配慮だったけれど、堪えた。

私は痛みなんかにこれ以上、やられてたまるか!と思った。
赤ちゃんをどうにか支えられるようになったとき、
今まで飲ませられなかった分も
存分に母乳を飲ませてあげたいと思った。

それが赤ちゃんが自分の意志でおっぱいをやめる、
『卒乳』を待とうと思った大きな理由だった。

母乳をあげられるようになったとき、
我が子を安定して抱とめることできたとき、
本当にうれしかった。

母乳育児がスムーズになると、
授乳訓練で指導していただいた様々なことが
自分と赤ちゃんとで実践できるようになった。

ちいさな赤ちゃんは母乳を飲むのに疲れて、
すぐ眠ってしまうので、くすぐったりして
なるべく一度の授乳でたくさん飲ませること。

私は足をくすぐるようにした。

「おっぱい飲んでくれてうれしいよ。
 いっぱい飲んで、おおきくなってね~」

そう言いながらくすぐると、
すー、と小さな寝息をたてて眠っていた赤ちゃんが、
びくっと起きて、慌てておっぱいを探して、
金魚のように、口をぱくぱくさせる。

半分眠りながらも、
一生懸命、おっぱいを飲む姿は可愛かった。

はじめての子を、主人もお義母さんも、
すごくかわいがってくれたので、
あちこち連れ出してあやしたがるのだが、
赤ちゃんが泣き出すと、
「お母さんだ!」と慌てて戻ってくる。

でも、肝心の赤ちゃんは、
まだ視力が弱いので、どうやら私の顔と、
おっぱいとが結びついていない感じだった。、

なんというか、だっこすると自動で
おっぱいを出してくれる、自動販売機というか、
おっぱいマシーンのような存在に
思ってるんじゃないか?、という気がしてならなかった。

「そんなことないよ」と主人は励ましてくれたけど、
実は、落ち込んでいたわけではなかった。

おっぱいマシーンでも、なんでも。
小さく生まれた我が子が、
元気におっぱいを飲んでくれるのが、
すごくうれしかった。

だが一方で、母乳がどんなに絶好調でも、
ミルクとの併用を考える旨の、助言もいただいた。

母乳だけで育ててしまうと、
赤ちゃんが母乳以外を飲めなくなってしまい、
お母さんの病気や仕事など不測の事態に、
赤ちゃんが母乳以外を飲みたがらず、
栄養不足になってしまうのだという。

こちらはなかなか難しかった。
母乳を飲めるようになった赤ちゃんは、
ミルクに見向きもしなくなってしまったからだ。

当時、南相馬市で仕事を請け負っていた私は、
たびたび仕事で東京出張しなければならなかった。

まだ小さな我が子を預けるという不安は、
言葉では言い表せない凄まじいものだった。

そして、母を――
というか母乳を求めて泣き叫ぶわが子の声に、
心が潰れそうになりながら家を出た。

この気持ちは、母になった人でなくては、
なかなかわからないものだと思う。

東京での仕事を終え、常磐線で4時間。
ようやく家に帰ると、赤ちゃんはひたすらに母乳を求めた。
母親のいなかった時間を埋め合わせするかのように、
何時間にも渡る長飲みをする。

聞けば私がいない間、
赤ちゃんは、母乳がやって来るのを信じて、
頑張って頑張って泣き続けていたという。
ミルクはほんの少ししか飲まなかったと。

「がんばったんだね。ありがとう」
そんなきれいな感謝の気持ちなんかよりも
心が痛かったり、悲しかったりするのだけれど、
なるべく声に出す言葉は「ごめん」ではなく、
「ありがとう」にした。

赤ちゃんがおっぱいにぶらさがって乳を飲む。
その時間が短くても長くても、それは
体力の全てを吸いつくされてしまうような
力強いものだった。

命を育てているんだ――。
そんな手応えがあった。

あまりに長飲みされると、その日は朦朧として、
へとへとになってしまうのだけれど、
それでも、いいおっぱいを出すために、
授乳しながら無理やり食事をした。

赤ちゃんの体が少し大きくなると、
クッションや体勢を工夫することで、
私は赤ちゃんを片手で支えながら、
もう片方の手で執筆を進められるようになった。

短い言葉でやり取りするTwitterは、
片手タイプ訓練の場を与えてくれた。

赤ちゃんが自分で自分の体勢を変えられるようになり、
うつぶせ寝の危険がなくなると、
おっぱいをあげながら眠ることさえできるようになった。

このとき、私より、主人やお義母さんが、
ものすごく喜んでくれていた。
「これでやっと美和ちゃんが眠れる」と。
支えてくれる家族がいるのが嬉しかった。

一方で、赤ちゃんの成長は新しい危険を孕んでいた。
赤ちゃんに歯が生え、おっぱいを齧るようになったのだ。

『断乳』を支持する方の中には、
歯が生えるまでにはおっぱいはやめさせる、
という考えもあるらしい。
それは、お母さんのおっぱいを守る、
ということでもあるのだ。

赤ちゃんの成長と共に
赤ちゃんの噛む力は日増しに強くなっていく。

加減を知らない赤ちゃんの力は、予測不可能だ。
気を付けていても、くっきりと歯型がついてしまったり、
胸が血まみれになってしまったこともあった。

それでも、傷薬を塗ったり、
ガードを付けたりしながら、授乳を続けた。

主人はそんな私を心配して、断乳を勧めはじめた。
それでも私は、生まれて間もない我が子に、
しばらく乳をやれなかったことが頭から離れず、
首を立てには振れなかった。

主人と私はなにかあるたび、
おっぱいをめぐって衝突した。

けれども最終的には
「お母さんの気持ちを大切にしたい」、
と主人が折れてくれた。

でもドクターストップならぬ、お父さんストップは度々あり、
それは胸の傷が深刻になるにつれ、長くなっていった。

もっと上の世代の方々はさらに厳しくて、
私に母親として、はっきりとダメ出しをした。

「おっぱいに辛子を塗りなさい」

「おっぱいにへのへのもへじを書いて
 赤ちゃんを脅かしなさい」

「おっぱいを飲んだら、
 赤ちゃんをバカにしなさい」

などなど……。
なんだかすごい攻撃力の高い意見が飛び交った。

その方々が子育てしていた時代には、
そもそも『卒乳』という概念がなかったことや、
おっぱいには栄養がまったくない、
などと言われてきた背景もあるのだろう。

「歯が生える頃には、
 赤ちゃんにおっぱいをやめさせるのは当たり前。
 だらだらした授乳は、赤ちゃんを軟弱にします!」

でも、どんな意見をいただいても、
卒乳を待ちたいという気持ちは変わらなかった。

そんな戦いの中でも、我が子はまさにすくすく成長し、
小さいなりにも大きくなってくれて、
母乳以外も受け付けるようになっていった。

母乳オンリーから離乳食へ。
離乳食から、おとなと同じごはんへ。

母乳を欲しがる回数もどんどん減っていった。
それでも、寝る間際のおっぱいだけは、
やめるそぶりはない。

主人「もう……いいんじゃないかな?」

生田「そろそろ自分で言い出すと思うから、もう少し頑張る」

そんなやり取りを何度したことだろう。

そうして、我が子の卒乳を辛抱強く待っていたある日――。
私はひどい風邪にかかってしまった。

お医者さんの話では、他の病気の疑いもあるので、
強い薬を飲まねばならないという。
それは、当然、母乳にも影響が出る。

数日、母乳を止めねばならない――。

とても不安なことだった。

病院から帰ってきた私になにか感じ取ったのか、
我が子はすぐ「おっぱい!」とぐずり始めた。

母親が赤ちゃんの気持を察知できるように、
赤ちゃんもまた母親の気持ちは分かってしまうのだという。

私の不安を察知したのか、
我が子はグズグズと泣き止まない。

「お母さん、お薬飲むから、しばらくおっぱい我慢してね」
と言うと、我が子は泣き止んだ。
けれども数分すると、「おっぱい!」と言ってじわっと泣く。

すると――

主人「おっぱいはないって言ってるだろ!」

それは私も聞いたこともないような、
乱暴で荒々しい主人の声だった。

火がついたように、我が子は泣いた。
食事も取らず、私の側から離れない。
私にしがみついて、
主人によって引き剥がされそうになると、
顔どころか全身を真赤にして、
この世の終わりかというくらい泣き叫んだ。

そんな我が子の様子に、胸が張り裂けそうになる。

私のせいだ。私が風邪なんかひいたからだ。

新米母親は何かと完璧を求めて、
不必要に自分を責めて追い詰めてしまうものだと
聞いていたけれど、私もまさにそうだったと思う。

真っ青になって立ち尽くす私に、
主人がウインクしていた。

「大丈夫、俺がきつく当たれば、
 おっぱいがなくても、
 美和さんにだっこされてるだけでも満足するよ。
 卒乳させるんだろ? みんなで頑張ろう」

主人の優しさに、私は胸を打たれた。
我が子は泣きつかれてそのまま眠ってしまった。
しがみついてきた手は、なかなか解けなかった。
小さな頃に戻ったようだった。

そうして数日、我が子は一生懸命に耐えた。
上目遣いで、私のご機嫌を伺うようにして、

「おっぱ、いーい?(おっぱい、飲んでいい?)」

と聞く。

「まだ、お病気なの。もうちょっと我慢してね」

と言うと、じわっと泣く。

そのうち我が子は、
私の胸をとんとんとノックするようになった。
言葉ではなくしぐさで、
おっぱいが欲しい、と言っているのだ。

声を出すから怒られると思ったのか、
自分なりに新しい方法で気持ちを伝えてくる。

「我慢してね」というと、またじわっと泣く。

これは辛かった。
いい子にしているのに、どうして?、
と言うように、声を殺してさめざめと泣く。

夜になると、
我が子は声が枯れるまで泣き叫んだ。
日中、喋らずにいた反動なのか、
声の限りに泣き喚いた。

それは虐待をしてると思われても仕方ないくらいの、
悲しみを叩きつけるような、ものすごい声だった。
心が折れてしまいそうになった。

主人はそのたびに、
「ふたりともがんばれ!」と私たちを励まし、
深夜にもかかわらず我が子を抱いて、
散歩に連れ出し、我が子が自然に眠れるまで
何時間でも歩きまわってくれた。

そうして家族三人で耐えた数日後。
薬を飲みきり、体も回復し、授乳のお許しが出た。

私は、久しぶりに我が子を胸にぴったりと抱き寄せた。
授乳のポジションだ。
抱きしめた我が子の体は、とても暖かい。

「いままでいっぱいがんばってくれてありがとう。
 お母さん、お病気治ったから、おっぱいいいよ」

そう言って授乳しようと準備すると、
我が子はおっぱいを見つめて、驚いて目を見開いた。

続いて、飲んでもいいの?と言うように、
私とおっぱいをなんども見比べて、
嬉しそうに目を輝かせている。

そして、「いいよ」と言うと、笑顔のまま、
そっとおっぱいをふくんだのだが――。

我が子はすうっと顔を引っ込めて、
おっぱいから離れてしまったのだ。

あの時の我が子の表情が忘れられない。

少し困ったような、恥ずかしそうな、
それでいて、茶目っ気というか愛嬌のある、
子供にしてはとてつもなく複雑な笑顔を――。

  うれしいけど、
  もうおっぱいいらないかも……。
  だって、ちょっと恥ずかしいもん。

言葉こそ発しなかったけど、
あの顔は、たぶんそう言っていたのだと思う。

授乳中は、色々お叱りを受けることもあり、
卒乳なんて自己満足なのかな?、
と不安になった日もあった。

他のご家庭や平均値などと比べて
自分がひどく外れたことをしてしまっているのかと、
悩んだ日もあった。

でも今は、胸を張って言える。
私は、卒乳を待ってよかったと思う。

子育ては、子どもたちの個性が違うため、
結局、何人育ててもすべて初めてのことばかりで、
したがって、過去を振り返れば後悔の連続であると言う。
それは人生と同じだ。

でも、子育ては、
できなかったこと、うまくいかなかったことを後悔した分、
こうしよう、ああしてみよう、と
未来に掛ける想いが、どんどん増えてくる。
それも人生と同じだ。

いっぱい悩んで、自分なりに決断して行動して、
そうして生きてきた道筋は、
どんなにデコボコしていても、やはりいい。

時が経つほど、そのでっぱりやへこみの、
ひとつひとつが、良かったと思える。
新しい道に挑んでいれば、なおさらだ。

我が子のあの複雑な笑顔を思い出すたび、
私は自分が通ってきた道筋を愛おしく思う。

どんなに頑張っても、
まず自分を褒められない後ろ向きな私が、
我ながら頑張ったなあと、思えるのだ。

私はまたこれからも、
過去にしでかした数々の失敗に歯噛みしながらも、
お母さんを頑張っていこうと思っている。

|

« 未だ見ぬ笑顔 | トップページ | なんでもない風景 »