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2011年3月28日 (月)

私たちの戦い

主人「美和さんは、これでいいんだよな」

生田「どうしたんですか?」

私の24日のブログを読んだ主人がつぶやいていた。
それは、誰かを非難するようなものではなく、
思わずこぼれてしまったというような、
ため息にも似た微かな声だった。

このことは書こうかどうしようか迷ったが、
やはり書いたほうがいいと思う。


数日前まで、主人はろくに眠れていなかった。
睡眠時間をとっても、
まったく疲れが取れていないのだと分かる。
私の主人は南相馬で生まれ育ったのだ。


3月11日――。
東日本大震災が起きたあの日。
私と主人とは我が子の安全を確保すると、
すぐさま、それぞれ実家に連絡をした。

私の実家、横浜は何事もなかった。

両親がテレビ電話に興味を持っており、
ほんの少し前、主人に頼んで
実家のパソコンと私のパソコンとで、
画像付きで話せるようにしてもらっていたのが
幸いして、連絡がすぐについたのだ。


両親「横浜も相当揺れたけど、大丈夫」

生田「こっちもみんな大丈夫だよ」


映像で両親の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
我が子の顔も見せられるので、
両親も安心したようだった。


生田「うちは大丈夫よ。お義母さんは?」


そう、主人に尋ねると、


主人「電話、つながらない――」

生田「え?」

主人「大丈夫だ。慌てても仕方がない」


元々口数の多くない主人だが、
奇妙なほど、落ち着いて見えた。

テレビのニュースが状況を伝え出すと、
東北の広範囲で甚大な被害が出ているとわかった。

東京でも緊急地震速報の警報が鳴り、
強い余震が来る。遠くでサイレンが聞こえていた。

テレビ画面の右下にある日本列島が、
色づいていく。大津波警報だという。
信じられなかった。


主人「ばあちゃんち、流されたかもしれん」


すっと血の気が引いた。

妊娠中ご挨拶に行ったことが思い出された。
おばあちゃんのお宅は屋根瓦の立派な日本家屋だった。
ご家族が暖かく迎えてくださった。
素朴なお漬物の味が忘れられない。

おばあちゃんたちは無事なのだろうか――?

未曽有の震災が、すぐ間近にあった。


生田「お義母さんと連絡は!? 弟さんとは!?」

主人「まだつかん」


主人はテレビに映る痛ましい風景を
じっと見つめていた。

新しい情報が入ってくるたび、
頭の中が真っ白になっていった。


数時間たって、主人の携帯に着信音があった。
お母さんからだった。

弟さんもお母さんも怪我もなく無事であり、
家も幸いなことに被害は軽いという。

よかった。本当によかった!
その日は、そう思っていたのだ。


目が覚めると、原発に問題が発生していた。

炉が冷やせない。
爆発があった。
弁を開放した。
燃料棒がむき出しになった。

なんの専門知識もないせいなのか、
情報のひとつひとつが重く心にのしかかった。
得も言われぬ恐怖感が押し寄せてきた。


生田「お義母さん、避難しなくていいの?」

主人「母が家を離れることはないよ」


主人のお義父さまは主人が学生の頃、
他界してしまった。
癌だった。

お義母さまは以来、
女手ひとつで主人と弟さんを育ててくれた。

道路計画やら何やらで、近隣の家々が立ち退き、
町がまるごとなくなってしまっても、
お義母さまは家を離れなかった。

それはお義父さまとの思い出が詰まった家だからだという。


生田「せめて弟さん夫婦と一緒にいられないのかな」

主人「難しいだろうね」


あの家でひとりで生きて行く覚悟を、
ずっと昔に決めてしまったからね――。

主人はそう言ってパソコンに向かった。
情報収集をしているとわかった。

お義母さんと弟さんとそのお嫁さんと――。
南相馬に残る家族のためにだ。

Twitterでも有益な情報を
発信してくださる方々がいらした。

主人は被害の様子をメモを取り、
道路や避難場所の状況を確認していた。

私はTwitterを控えることにした。
緊急車両に道を開けるように、
こんなときは大切な情報のために
Twitterの使用は控えようと思った。


生田「他に私に出来ることは?」

主人「子供――。
    楽しく過ごせるようにしてやって」

生田「まかせて!」


我が子は震災直前の10日深夜、
激しい嘔吐で病院に駆け込んだばかりだった。

胃が食べ物を受け付けず、
激しい腹痛に泣きじゃくる。

子供らしいふくよかな顔は
すっかりやつれてしまっていた。

体力も落ち、しばらくは
薬を飲んで眠るだけの生活が続くという。

それでも少しでも楽しく過ごせるように、
起きていられる僅かな時間には、
お絵かきやお歌遊びをした。

赤ちゃんの頃に戻ったように、
我が子は私から離れなかった。


不安な日が続く。

被災した人も、しなかった人も、
きっと日本中が、事態の収束を願っていたと思う。

だが、日が経てば経つほど、
被害の凄まじさがわかってきた。

繰り返される津波の映像は、本当に酷いものだった。
こんなものに、どう立ち向かえというのか。

何の罪もない人たちが、どうしてこんな風に
命を、生活を、故郷を奪われねばならないのか。
ただ悲しかった。

南相馬市が映るたび、主人は私に言った。


主人「美和さんとドライブしたところだよ」

主人「あのあたり、ふたりで歩いたよな」

主人「もうあの店の刺身定食は食えないのか」


わかるかい?と主人は言う。
でも、テレビに映るのは瓦礫と泥だけなのだ。

風光明媚なうつくしま、福島の美しい風景など
陰も形も無くなっているのだ。


生田「わからないよ……ぜんぜん……」


私は泣きながら言った。


主人
  「道路計画で近隣の家々がなくなったとき、
   俺は、自分が育った風景は、
   もうどこにも残っていないと思っていたけど、
   それでも美和さんと新しく作ってきた思い出まで、
   こんな風になくなるなんてな」


主人の声は穏やかだった。
言葉が出てこない。
私は何も言えなかった。

火が消えたように、
部屋の中は静まり返っていた。

しばらくの沈黙後、声が弾けた。


主人「ああ、クソッ!
    なにもかもなくなっちまったなあ!」


主人は微笑もうとしていたと思う。
震災後はじめて、主人が感情を出した瞬間だった。


原発の問題はすぐに解決するものではない。
それはわかっている。

最悪の事態ではないと言う。
繰り返されるのは、「大丈夫」という言葉だ。

では、どこから大丈夫ではなくなるのか?

先の見えない戦いほど、
心への負担が大きいものはない。

被災者を助けようと、被災地でも頑張ろうと
人々は踏ん張っている。
でも、その足元すら揺らいでいる。

心が、削られていく。

お義母さんたちをどうにかして
助けに行けないものだろうか?

余震が収まるまでの間、一ヶ月ほどでもいい。
東京で暮らしてもらえないものだろうか?

主人も、私も、幾度となく自分に、
お互いに問いかけて、手立てを探した。

だが道路は地震で寸断され、
一般車の立ち入りは難しいという。


主人「母が弟の家に移動したって」


そんな時、
まともに繋がるようになった携帯メールで、
主人がお義母さんの様子を教えてくれた。


生田「よかった。おひとりじゃ不安だもの」

主人「ああ、やっとだ……」


その言葉から、主人が避難するように、
こんなときだからこそ家族で一緒に行動するようにと、
メールでの説得を繰り返してきたのだとわかった。

それほどお義母さんにとって、
家は特別で、大切なものだった。


主人は、頻繁にメールをするようになっていた。
携帯メールだけが、南相馬と東京都をつなぐ、
唯一の連絡手段だった。


そんな中、屋内退避勧告が出された。

政府がやっと重い腰をあげ、
危険を認めたのだと私は思った。

だが――。


主人「なんで屋内退避なんだ?」


主人が見せた動揺の意味を、
私はその時まだわかっていなかった。


時間が経つに連れ、それははっきりした。


主人「物資が届いてないらしい」


屋内退避=危険地域との認識が広まったのだと言う。

危険区域となった南相馬には救援物資が届かず、
逃げようにも逃げられない人たちが大量に出た。
ガソリンがないことが大きかった。

食べられてるのか? 
水はあるのか?
体調は?

主人から送るメールは疑問符だらけになった。
けれどもお義母さんは泣き言ひとつ言わない。

食料も水も当面、心配はないと言う。
何を聞いても、大丈夫だと言う。

だが具体的なことは一切、教えてはくれない。

それどころか病気の我が子の心配や、
私たちの心配さえしてくれる。

報道で知る情報と、
お義母さんの大丈夫という言葉が、
あまりにもかけ離れて感じられた。

無理をしているようだ、と主人は言った。


生田「やっぱり一度、福島を離れた方が……」


主人「いや……、たぶん避難はしない。逃げないと思う」


弟さんは被災した方々のために、現地で働いていた。
帰宅しても深夜で、数時間寝て、すぐ仕事に出る。
だから、被災した人たちを置いてはいけないだろうと言う。


生田「でも、弟さんだってお義母さんだって被災者なのに……」

主人「家族は無事だ。家も残ってる。車もある」

生田「でも……」

主人「外部からの助けがない以上、仕方がないんだ」


私はやっと、主人の苦しみを理解した。

政府が下した屋内退避というものは、
苦しみの中にある人たちを、
そのままその苦しみの場に縫いつけるような
そんな決定だったのだ。

逃げられる人を内側に押し止めて逃さず、
助けられる人を外からは助けない。
そういうものだったのだ。

ひょっとしたらまだ瓦礫の下で、
冷たい海の上で、
誰かが生きているかもしれないのに、
それを探すこともできない。

南相馬市の死亡者数が伸びないのは
捜索が行われていないからだと言う。

悔しかった。
ほんの数年、出産と育児のために
南相馬市にいただけの私ですら
絶望感に目の前が真っ暗になった。

そこで生まれ育った主人の悔しさ、辛さは
どれほどだったろう。

家族と離れ離れになってしまった人たちのそれは――。
ご家族を失ってしまった人たちのそれは――。

国に見捨てられたんだ――。
被災地の人々を見捨てろと言われたんだ――。

そう言い切れる状況だった。


しばらくして、ようやく福島の窮状が
マスコミに伝わるようになった。

南相馬市市長、桜井勝延氏のインタビューは、
人々の胸を打ち、その心を動かした。

被災しなかった人々が見たいのは、
人が亡くなるところじゃない。
家が流されていくところじゃない。

今、無事である自分たちがなにをすべきか?
なにをどうすれば、被災した人々を、誰かを
助けられるのか?

それだけだったのだ。

それがわかったから、人々は動き出した。

桜井市長のインタビューを境に、
報道は災害エンターテイメントから、
実のあるものに、心あるものに変わった気がする。


真実を知った人々が様々な形で働いてくださった。
主人は、Twitterやネットでそうした方々の情報を得て、
南相馬に残るお義母さんに伝えた。

テレビも見られないお義母さんたちより、
東京にいる私たちの方がずっと情報を持っていたのだ。

送る情報は必然的に
食料の確保や原発の状態、支援の状況、
そして放射線への対応などになる。

それは、頑張れなんて柔な言葉じゃなかった。
生きろという指示、あるいは命令だった。

メールを書く主人も、読むお義母さんも、
気力を削ぎ落とされるような、
辛く、苦しいやりとりだったと思う。

私はせめて心の力になれればと、
我が子の写真を送った。

我が子は、お義母さんにとって初孫で、
生まれてからしばらく南相馬市で育った。

一緒に過ごした思い出が、成長した姿が、
明日を生きる元気につながればと思った。

癒されるよ、ありがたいよ、とメールが帰ってきた。
でも、そこにはいつものお義母さんの
溢れるような明るさはなかった。

お義母さんの限界が近いのではないかと、
いたたまれない思いだった。


深夜、ふと目を覚ますと、主人がぐったりとしていた。
温かいコーヒーを、インスタントしかなかったけど、
ふたり分入れて、隣りに座った。


生田「どうしたの?」

主人「覚悟を決めたんだって言うんだ」

生田「え?」

主人「逃げないと――、そう決めたそうだ」

生田「!」


主人は吐き捨てるように言った。


主人「何のための覚悟なんだろうか……。
    命を……、
    自分らの命を、守ってくれないのか……」


読ませてもらったお義母さんのメールには、
明らかに披露の色が見えた。

もう、頑張りようがないのだとわかった。


主人はいますぐ南相馬市に飛んでいって、
ぶん殴ってでも家族を連れ出したいと言った。
どんなに憎まれても恨まれてもいいと。

避難した後で「避難なんて大げさだったね」、
と笑い話になる分にはいいじゃないかと。

誰も経験したことのない危機なのだ。
逃げ出した人を誰が責めるのか。

主人は粘り強く説得を続けた。
でも、お義母さんは動かなかった。


弟さんも、主人のメールには一切答えなかった。
仕事が厳しく、束の間家に帰っても
お嫁さんとも口をきけないほどだという。
お嫁さんも、どれほど不安で苦しい毎日だろう。


私は想像する。
すべてが破壊し尽くされた街を――。
家族を、家を、故郷を、生活の全てを、
失った人たちの苦悩を――。

そのひとたちのため、
できることをしていく必要がある。

だけれど、眼に見えない放射能の恐怖があり、
生活物資は届かない。
食料不足は深刻で、打つ手が無い。

できれば逃げたいという人が
大勢いるのにガソリンがない。

自分もいつ、どうなるかわからない。
もちろん、自分の家族も。


私は、そんな恐ろしい状況を、
とても想像することができなかった。

どうしたらいいのか、まったくわからない。
何も手につかなかった。

このまま手助けのしようがないのだろうか。
そんなことがあるのだろうか。

主人はただ黙々と情報を集め、メールを打った。
私も、「いつでも来てください」とメールした。
それくらいしかできなかった。


日本中の願いも虚しく、
原子炉は危険な状態になっていく。

そんな15日深夜、
主人の携帯電話から着信音がした。
メールを読む主人の顔色が変わった。


主人「逃げて、くれた……」


しばらくぶりに見る、主人の和らいだ顔だった。

主人はすぐさまパソコンに向かった。
道路や給油の情報を調べる。
私も、飛行機や深夜バスの動きを調べる。

携帯メールで指示を出し、移動をサポートする。
無茶を承知でレンタカー会社に掛けあって、
福島方面へ車を出すことさえ検討した。
結局断られたけど、温かい対応だった。

そうして一晩かけて、お義母と弟さん夫婦は、
やっと東北の避難所に逃げることができた。

原発の心配がない夜、
ようやくぐっすり眠ることができたという。


翌日、弟さんからはじめてメールが来た。

お嫁さんを、これ以上、放射能の危険がある場所に、
置いておきたくなかったという。

弟さんのお嫁さんは、数年に渡る闘病生活で
ずっと放射線治療を受け続けてきた方だった。

その長く辛い闘病生活を、
弟さんはずっと支えてきたのだという。


主人「自分の判断のせいで、嫁さんになにかあったら、
    あいつ絶対、自分を許せないからな」


よかったと思った。


その後、お義母さんたちは東北で避難生活に入った。

主人は東京に来て欲しいと誘ったが断られた。
福島からあまり離れたくないのだと言う。
できれば、南相馬市に戻りたいとも。

それならばと主人は、東北での友人を頼り、
東北でお義母さんたちがしばらく暮らせるよう、
仕事や住む場所などを探した。

「まかせとけ。大丈夫だ」
そう言ってくださる東北の人々の優しさに、
胸が熱くなった。


3月25日。
政府は屋内退避区域の人々に、自主退避を勧めた。

自主退避――。
逃げたい人は逃げていいというのだ。

そんな中、これからどれだけの混乱があるのか。

職務を捨てて逃げ出さざるをえない人がいる。
切り捨てられる交通弱者がいる。

子供たちが、どんなに逃げたいと思っても、
一家の長が逃げないといえば、
その一家は逃げることはできない。

この決定は、長年培ってきた人間の絆を引き裂く。

何故、こんな未曽有の危機への判断を
各家庭に、各職場に、委ねてしまうのだろうか?


安全ならば安全と言えばいい。

物資をどんどん運び、人を送り込み、
一秒でもはやく、街を復興させればいい。

そうでないというのなら、

「万に一つの危険を考えて、
 念のためみんなで移動しましょう」

で、何が悪いのだろうか?

冒頭に戻る。
24日のブログを読んだ主人が、事情を話してくれた。


主人「美和さんの言葉は、読まれた方の気持ちを
    前向きなものに導く意思がこもった
    良い文章だと思う」


主人「でもな、俺個人としては『がんばれ』って言うよりも、
    『お前らよくやったから、もう逃げろ』って
    言ってあげて欲しいんだ」


数日前、奥さんとお義母さんを避難所に残して、
弟さんは、南相馬市に戻ったという。

南相馬には、そうやって帰ってくる人たちがいる。

一度、南相馬市を離れ、
大切な家族を安全な場所へ移動させ、
そこでの生活をある程度見極めてから、
また、南相馬市で被災した方々を助ける仕事に戻るのだ。

残る人や戻る人を、非難する人がいるという。

けれど、残ろうというその場所は、戻ろうというその場所は、
自分たちが生まれ育ってきたすべてが刻まれた土地なのだ。

親との思い出が、子供たちの成長が、
友と馬鹿騒ぎした日々が、愛する人々との楽しい記憶が、
そのすべてが刻まれた、大切なふるさとなのだ。

そしてまだ、多くの人が発見されず、
冷たい土砂や瓦礫の下で、助けを待っている。

もう命がないとわかっていても、
その愛する人たちの身体を、
どうして探さずになどいられるというのだ。

みな、血のかよう人間ではないか。


だから残る人や戻る人を責めることなど、
私にはできない。


主人「正直に言えば、
    俺は国の命令として、完全避難を進めて欲しい」


生き残った人びとは、地震に耐え、津波に耐えた人たちだ。
けれども放射線の波はまだ、南相馬の人びとを、
福島を襲い続けている。


主人「乱暴な意見だけれど、
    悲しみや思い出から無理やり引きはがしてでも、
    生き延びた人たちの未来を守ってほしい」


主人「もうこれ以上、苦しんだ人たちを
    苦しめないで欲しいと思う」


それは、現地で今も被災者を助ける立場にある
弟さんの身を案じての言葉だ。

その主人の言葉は重い――。


3月28日現在、
南相馬市は復興に向けて緩やかに歩み始めている。

南相馬市 市長からのメッセージ

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