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2011年3月31日 (木)

ここから歩こう

原発があるということを私は知っていたし、
福島の原発が作ってくれる電気を毎日のように使っていた。

でも、自分たちの生きている時代に、
核の危険も、大地震の危険も、戦争の危険もないのではないか?

心の何処かで、そんな風に思っていた。


自分たちのいるこの世界が安全だなんて、
どうして、そんなことを信じていられたのだろう。


3.11の大地震は紛れもない天災で誰のせいでもない。
私が生まれたときには原発は既にあった。

だけどもう、そんなことは言い訳にはならないほど、
私たちは世界にひどいことをしてしまったのではないか?

どんなに手を、心を、知恵を尽くしたところで、
汚染との共存を受け入れなくてはならないことに
なんら変わりはない。

福島原発の近隣、数十キロは、立入禁止となってしまうだろう。

もう世界は、元には戻らない。

これからの命に、どう償えば良いのか。


本当は、次のページをめくりたくなる、
そんな、続きのある世界を私は作りたかった。

そしてその思いを「つづく」という字幕を入れて、
次の未来に、そのまた次の未来にと、
大切につなげていって欲しかったのだ。

自分は必ず死ぬのだから、
自分たちだけで世界を消費などしたくなかった。


子どもたちに言うべき言葉を、
「こんな世界にしてしまってごめんね」
にしたくない。

そんな世界のままで、いさせたくない。
いさせてはならない。

なんとかしたい。
絶対に、なんとかしたい――。

「今」を経験しているおとななら、
きっとそういう気持ちが沸き上がってくると思う。


でも、どんなに手を尽くしても、
奪われてしまったものが、元通りになることはない。

だからもう、目的地は元の世界ではないのだ。
新しい世界を作らねばならないのだ。
危険のない世界を、安心のある暮らしを。

これからの命に、これ以上、
何かを背負わせたり、奪ったりしないために。
心底、頑張らなくちゃならないのだと思う。


もう、悲しみから覚めねばならない。
今を見て、新しい未来を思い、歩くのだ。

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2011年3月30日 (水)

かっこいい白菜

近所は、ここのところとても静かだ。
いつもは子どもたちの声で溢れているのに
その声が聞こえてこない。

買い物に出ると、人々の声が聞こえてホッとする。
誰かの暮らしが普通にそこにあり、
明日もそれが続いていくと思えることが嬉しい。

今日は牛乳と果物のジュースを買うことができた。
子供が欲しがっていたピルクルは売り切れだったけれど、
イチゴとバナナで許してもらえると思う。


おやつの時間、
主人がホットケーキを焼こうと粉を練り始めた。
すると……


 主人「美和さん、卵とってー」

 生田「あ! 朝御飯の目玉焼きで使い切っちゃいました!」

 主人「じゃあ、この練りに練った粉は何になるんだろう……?」

 生田「私、買出しに行ってきます!
     六時までなら、まだ間に合うかもしれません」


急に緊迫した様子に、
遊んでいた積み木を放り出して、
我が子が飛んで来た。


 我が子「うーむ! だいじょぶ!
      はくしゃい、あるよ!」


訳すと……


 「たまごがなくても、とっても、だいじょうぶ!
  だって、はくさいが、あるんだよ!」


そういえば、おばあちゃんと遊びに行った公園で、
大きな木を見ながら、


 我が子「おっきー、きいね。はくさいみたい!
      (大きい、木ね。白菜みたい!)」


と言っていたらしいから、
我が子の中で白菜とは、とてもおいしくて、
かっこいい存在なのかもしれない。


誰かの声があるのは嬉しい。
それが、会話であればなお嬉しい。

誰かの声に答える人が居ること。
自分の声に答える人が居ること。
それが、馬鹿みたいに嬉しくてありがたい日もある。

今日は、そんな日だった。

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2011年3月29日 (火)

アクアマリンふくしま

被災後のアクアマリンふくしまについて

こんなことになっているなんて、知りませんでした。

家族のアルバムから、思い出の写真を貼っておきます。

5
巨大魚のような建物


01
中へ入っていくと……


2
入り口のお魚オブジェ


3_2
この日の出し物


4
いわしの大群が!


6
見ごたえたっぷり。海を切りとったみたいな大きな水槽


7
大好きなかっぱちゃんと


ここにも楽しかった思い出があります。
ここで買ったかっぱのぬいぐるみは
今も我が子のおともだちです。

また、家族みんなで遊びに行きたい……。
一日も早い、福島の復興を願っています。

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2011年3月28日 (月)

私たちの戦い

主人「美和さんは、これでいいんだよな」

生田「どうしたんですか?」

私の24日のブログを読んだ主人がつぶやいていた。
それは、誰かを非難するようなものではなく、
思わずこぼれてしまったというような、
ため息にも似た微かな声だった。

このことは書こうかどうしようか迷ったが、
やはり書いたほうがいいと思う。


数日前まで、主人はろくに眠れていなかった。
睡眠時間をとっても、
まったく疲れが取れていないのだと分かる。
私の主人は南相馬で生まれ育ったのだ。


3月11日――。
東日本大震災が起きたあの日。
私と主人とは我が子の安全を確保すると、
すぐさま、それぞれ実家に連絡をした。

私の実家、横浜は何事もなかった。

両親がテレビ電話に興味を持っており、
ほんの少し前、主人に頼んで
実家のパソコンと私のパソコンとで、
画像付きで話せるようにしてもらっていたのが
幸いして、連絡がすぐについたのだ。


両親「横浜も相当揺れたけど、大丈夫」

生田「こっちもみんな大丈夫だよ」


映像で両親の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
我が子の顔も見せられるので、
両親も安心したようだった。


生田「うちは大丈夫よ。お義母さんは?」


そう、主人に尋ねると、


主人「電話、つながらない――」

生田「え?」

主人「大丈夫だ。慌てても仕方がない」


元々口数の多くない主人だが、
奇妙なほど、落ち着いて見えた。

テレビのニュースが状況を伝え出すと、
東北の広範囲で甚大な被害が出ているとわかった。

東京でも緊急地震速報の警報が鳴り、
強い余震が来る。遠くでサイレンが聞こえていた。

テレビ画面の右下にある日本列島が、
色づいていく。大津波警報だという。
信じられなかった。


主人「ばあちゃんち、流されたかもしれん」


すっと血の気が引いた。

妊娠中ご挨拶に行ったことが思い出された。
おばあちゃんのお宅は屋根瓦の立派な日本家屋だった。
ご家族が暖かく迎えてくださった。
素朴なお漬物の味が忘れられない。

おばあちゃんたちは無事なのだろうか――?

未曽有の震災が、すぐ間近にあった。


生田「お義母さんと連絡は!? 弟さんとは!?」

主人「まだつかん」


主人はテレビに映る痛ましい風景を
じっと見つめていた。

新しい情報が入ってくるたび、
頭の中が真っ白になっていった。


数時間たって、主人の携帯に着信音があった。
お母さんからだった。

弟さんもお母さんも怪我もなく無事であり、
家も幸いなことに被害は軽いという。

よかった。本当によかった!
その日は、そう思っていたのだ。


目が覚めると、原発に問題が発生していた。

炉が冷やせない。
爆発があった。
弁を開放した。
燃料棒がむき出しになった。

なんの専門知識もないせいなのか、
情報のひとつひとつが重く心にのしかかった。
得も言われぬ恐怖感が押し寄せてきた。


生田「お義母さん、避難しなくていいの?」

主人「母が家を離れることはないよ」


主人のお義父さまは主人が学生の頃、
他界してしまった。
癌だった。

お義母さまは以来、
女手ひとつで主人と弟さんを育ててくれた。

道路計画やら何やらで、近隣の家々が立ち退き、
町がまるごとなくなってしまっても、
お義母さまは家を離れなかった。

それはお義父さまとの思い出が詰まった家だからだという。


生田「せめて弟さん夫婦と一緒にいられないのかな」

主人「難しいだろうね」


あの家でひとりで生きて行く覚悟を、
ずっと昔に決めてしまったからね――。

主人はそう言ってパソコンに向かった。
情報収集をしているとわかった。

お義母さんと弟さんとそのお嫁さんと――。
南相馬に残る家族のためにだ。

Twitterでも有益な情報を
発信してくださる方々がいらした。

主人は被害の様子をメモを取り、
道路や避難場所の状況を確認していた。

私はTwitterを控えることにした。
緊急車両に道を開けるように、
こんなときは大切な情報のために
Twitterの使用は控えようと思った。


生田「他に私に出来ることは?」

主人「子供――。
    楽しく過ごせるようにしてやって」

生田「まかせて!」


我が子は震災直前の10日深夜、
激しい嘔吐で病院に駆け込んだばかりだった。

胃が食べ物を受け付けず、
激しい腹痛に泣きじゃくる。

子供らしいふくよかな顔は
すっかりやつれてしまっていた。

体力も落ち、しばらくは
薬を飲んで眠るだけの生活が続くという。

それでも少しでも楽しく過ごせるように、
起きていられる僅かな時間には、
お絵かきやお歌遊びをした。

赤ちゃんの頃に戻ったように、
我が子は私から離れなかった。


不安な日が続く。

被災した人も、しなかった人も、
きっと日本中が、事態の収束を願っていたと思う。

だが、日が経てば経つほど、
被害の凄まじさがわかってきた。

繰り返される津波の映像は、本当に酷いものだった。
こんなものに、どう立ち向かえというのか。

何の罪もない人たちが、どうしてこんな風に
命を、生活を、故郷を奪われねばならないのか。
ただ悲しかった。

南相馬市が映るたび、主人は私に言った。


主人「美和さんとドライブしたところだよ」

主人「あのあたり、ふたりで歩いたよな」

主人「もうあの店の刺身定食は食えないのか」


わかるかい?と主人は言う。
でも、テレビに映るのは瓦礫と泥だけなのだ。

風光明媚なうつくしま、福島の美しい風景など
陰も形も無くなっているのだ。


生田「わからないよ……ぜんぜん……」


私は泣きながら言った。


主人
  「道路計画で近隣の家々がなくなったとき、
   俺は、自分が育った風景は、
   もうどこにも残っていないと思っていたけど、
   それでも美和さんと新しく作ってきた思い出まで、
   こんな風になくなるなんてな」


主人の声は穏やかだった。
言葉が出てこない。
私は何も言えなかった。

火が消えたように、
部屋の中は静まり返っていた。

しばらくの沈黙後、声が弾けた。


主人「ああ、クソッ!
    なにもかもなくなっちまったなあ!」


主人は微笑もうとしていたと思う。
震災後はじめて、主人が感情を出した瞬間だった。


原発の問題はすぐに解決するものではない。
それはわかっている。

最悪の事態ではないと言う。
繰り返されるのは、「大丈夫」という言葉だ。

では、どこから大丈夫ではなくなるのか?

先の見えない戦いほど、
心への負担が大きいものはない。

被災者を助けようと、被災地でも頑張ろうと
人々は踏ん張っている。
でも、その足元すら揺らいでいる。

心が、削られていく。

お義母さんたちをどうにかして
助けに行けないものだろうか?

余震が収まるまでの間、一ヶ月ほどでもいい。
東京で暮らしてもらえないものだろうか?

主人も、私も、幾度となく自分に、
お互いに問いかけて、手立てを探した。

だが道路は地震で寸断され、
一般車の立ち入りは難しいという。


主人「母が弟の家に移動したって」


そんな時、
まともに繋がるようになった携帯メールで、
主人がお義母さんの様子を教えてくれた。


生田「よかった。おひとりじゃ不安だもの」

主人「ああ、やっとだ……」


その言葉から、主人が避難するように、
こんなときだからこそ家族で一緒に行動するようにと、
メールでの説得を繰り返してきたのだとわかった。

それほどお義母さんにとって、
家は特別で、大切なものだった。


主人は、頻繁にメールをするようになっていた。
携帯メールだけが、南相馬と東京都をつなぐ、
唯一の連絡手段だった。


そんな中、屋内退避勧告が出された。

政府がやっと重い腰をあげ、
危険を認めたのだと私は思った。

だが――。


主人「なんで屋内退避なんだ?」


主人が見せた動揺の意味を、
私はその時まだわかっていなかった。


時間が経つに連れ、それははっきりした。


主人「物資が届いてないらしい」


屋内退避=危険地域との認識が広まったのだと言う。

危険区域となった南相馬には救援物資が届かず、
逃げようにも逃げられない人たちが大量に出た。
ガソリンがないことが大きかった。

食べられてるのか? 
水はあるのか?
体調は?

主人から送るメールは疑問符だらけになった。
けれどもお義母さんは泣き言ひとつ言わない。

食料も水も当面、心配はないと言う。
何を聞いても、大丈夫だと言う。

だが具体的なことは一切、教えてはくれない。

それどころか病気の我が子の心配や、
私たちの心配さえしてくれる。

報道で知る情報と、
お義母さんの大丈夫という言葉が、
あまりにもかけ離れて感じられた。

無理をしているようだ、と主人は言った。


生田「やっぱり一度、福島を離れた方が……」


主人「いや……、たぶん避難はしない。逃げないと思う」


弟さんは被災した方々のために、現地で働いていた。
帰宅しても深夜で、数時間寝て、すぐ仕事に出る。
だから、被災した人たちを置いてはいけないだろうと言う。


生田「でも、弟さんだってお義母さんだって被災者なのに……」

主人「家族は無事だ。家も残ってる。車もある」

生田「でも……」

主人「外部からの助けがない以上、仕方がないんだ」


私はやっと、主人の苦しみを理解した。

政府が下した屋内退避というものは、
苦しみの中にある人たちを、
そのままその苦しみの場に縫いつけるような
そんな決定だったのだ。

逃げられる人を内側に押し止めて逃さず、
助けられる人を外からは助けない。
そういうものだったのだ。

ひょっとしたらまだ瓦礫の下で、
冷たい海の上で、
誰かが生きているかもしれないのに、
それを探すこともできない。

南相馬市の死亡者数が伸びないのは
捜索が行われていないからだと言う。

悔しかった。
ほんの数年、出産と育児のために
南相馬市にいただけの私ですら
絶望感に目の前が真っ暗になった。

そこで生まれ育った主人の悔しさ、辛さは
どれほどだったろう。

家族と離れ離れになってしまった人たちのそれは――。
ご家族を失ってしまった人たちのそれは――。

国に見捨てられたんだ――。
被災地の人々を見捨てろと言われたんだ――。

そう言い切れる状況だった。


しばらくして、ようやく福島の窮状が
マスコミに伝わるようになった。

南相馬市市長、桜井勝延氏のインタビューは、
人々の胸を打ち、その心を動かした。

被災しなかった人々が見たいのは、
人が亡くなるところじゃない。
家が流されていくところじゃない。

今、無事である自分たちがなにをすべきか?
なにをどうすれば、被災した人々を、誰かを
助けられるのか?

それだけだったのだ。

それがわかったから、人々は動き出した。

桜井市長のインタビューを境に、
報道は災害エンターテイメントから、
実のあるものに、心あるものに変わった気がする。


真実を知った人々が様々な形で働いてくださった。
主人は、Twitterやネットでそうした方々の情報を得て、
南相馬に残るお義母さんに伝えた。

テレビも見られないお義母さんたちより、
東京にいる私たちの方がずっと情報を持っていたのだ。

送る情報は必然的に
食料の確保や原発の状態、支援の状況、
そして放射線への対応などになる。

それは、頑張れなんて柔な言葉じゃなかった。
生きろという指示、あるいは命令だった。

メールを書く主人も、読むお義母さんも、
気力を削ぎ落とされるような、
辛く、苦しいやりとりだったと思う。

私はせめて心の力になれればと、
我が子の写真を送った。

我が子は、お義母さんにとって初孫で、
生まれてからしばらく南相馬市で育った。

一緒に過ごした思い出が、成長した姿が、
明日を生きる元気につながればと思った。

癒されるよ、ありがたいよ、とメールが帰ってきた。
でも、そこにはいつものお義母さんの
溢れるような明るさはなかった。

お義母さんの限界が近いのではないかと、
いたたまれない思いだった。


深夜、ふと目を覚ますと、主人がぐったりとしていた。
温かいコーヒーを、インスタントしかなかったけど、
ふたり分入れて、隣りに座った。


生田「どうしたの?」

主人「覚悟を決めたんだって言うんだ」

生田「え?」

主人「逃げないと――、そう決めたそうだ」

生田「!」


主人は吐き捨てるように言った。


主人「何のための覚悟なんだろうか……。
    命を……、
    自分らの命を、守ってくれないのか……」


読ませてもらったお義母さんのメールには、
明らかに披露の色が見えた。

もう、頑張りようがないのだとわかった。


主人はいますぐ南相馬市に飛んでいって、
ぶん殴ってでも家族を連れ出したいと言った。
どんなに憎まれても恨まれてもいいと。

避難した後で「避難なんて大げさだったね」、
と笑い話になる分にはいいじゃないかと。

誰も経験したことのない危機なのだ。
逃げ出した人を誰が責めるのか。

主人は粘り強く説得を続けた。
でも、お義母さんは動かなかった。


弟さんも、主人のメールには一切答えなかった。
仕事が厳しく、束の間家に帰っても
お嫁さんとも口をきけないほどだという。
お嫁さんも、どれほど不安で苦しい毎日だろう。


私は想像する。
すべてが破壊し尽くされた街を――。
家族を、家を、故郷を、生活の全てを、
失った人たちの苦悩を――。

そのひとたちのため、
できることをしていく必要がある。

だけれど、眼に見えない放射能の恐怖があり、
生活物資は届かない。
食料不足は深刻で、打つ手が無い。

できれば逃げたいという人が
大勢いるのにガソリンがない。

自分もいつ、どうなるかわからない。
もちろん、自分の家族も。


私は、そんな恐ろしい状況を、
とても想像することができなかった。

どうしたらいいのか、まったくわからない。
何も手につかなかった。

このまま手助けのしようがないのだろうか。
そんなことがあるのだろうか。

主人はただ黙々と情報を集め、メールを打った。
私も、「いつでも来てください」とメールした。
それくらいしかできなかった。


日本中の願いも虚しく、
原子炉は危険な状態になっていく。

そんな15日深夜、
主人の携帯電話から着信音がした。
メールを読む主人の顔色が変わった。


主人「逃げて、くれた……」


しばらくぶりに見る、主人の和らいだ顔だった。

主人はすぐさまパソコンに向かった。
道路や給油の情報を調べる。
私も、飛行機や深夜バスの動きを調べる。

携帯メールで指示を出し、移動をサポートする。
無茶を承知でレンタカー会社に掛けあって、
福島方面へ車を出すことさえ検討した。
結局断られたけど、温かい対応だった。

そうして一晩かけて、お義母と弟さん夫婦は、
やっと東北の避難所に逃げることができた。

原発の心配がない夜、
ようやくぐっすり眠ることができたという。


翌日、弟さんからはじめてメールが来た。

お嫁さんを、これ以上、放射能の危険がある場所に、
置いておきたくなかったという。

弟さんのお嫁さんは、数年に渡る闘病生活で
ずっと放射線治療を受け続けてきた方だった。

その長く辛い闘病生活を、
弟さんはずっと支えてきたのだという。


主人「自分の判断のせいで、嫁さんになにかあったら、
    あいつ絶対、自分を許せないからな」


よかったと思った。


その後、お義母さんたちは東北で避難生活に入った。

主人は東京に来て欲しいと誘ったが断られた。
福島からあまり離れたくないのだと言う。
できれば、南相馬市に戻りたいとも。

それならばと主人は、東北での友人を頼り、
東北でお義母さんたちがしばらく暮らせるよう、
仕事や住む場所などを探した。

「まかせとけ。大丈夫だ」
そう言ってくださる東北の人々の優しさに、
胸が熱くなった。


3月25日。
政府は屋内退避区域の人々に、自主退避を勧めた。

自主退避――。
逃げたい人は逃げていいというのだ。

そんな中、これからどれだけの混乱があるのか。

職務を捨てて逃げ出さざるをえない人がいる。
切り捨てられる交通弱者がいる。

子供たちが、どんなに逃げたいと思っても、
一家の長が逃げないといえば、
その一家は逃げることはできない。

この決定は、長年培ってきた人間の絆を引き裂く。

何故、こんな未曽有の危機への判断を
各家庭に、各職場に、委ねてしまうのだろうか?


安全ならば安全と言えばいい。

物資をどんどん運び、人を送り込み、
一秒でもはやく、街を復興させればいい。

そうでないというのなら、

「万に一つの危険を考えて、
 念のためみんなで移動しましょう」

で、何が悪いのだろうか?

冒頭に戻る。
24日のブログを読んだ主人が、事情を話してくれた。


主人「美和さんの言葉は、読まれた方の気持ちを
    前向きなものに導く意思がこもった
    良い文章だと思う」


主人「でもな、俺個人としては『がんばれ』って言うよりも、
    『お前らよくやったから、もう逃げろ』って
    言ってあげて欲しいんだ」


数日前、奥さんとお義母さんを避難所に残して、
弟さんは、南相馬市に戻ったという。

南相馬には、そうやって帰ってくる人たちがいる。

一度、南相馬市を離れ、
大切な家族を安全な場所へ移動させ、
そこでの生活をある程度見極めてから、
また、南相馬市で被災した方々を助ける仕事に戻るのだ。

残る人や戻る人を、非難する人がいるという。

けれど、残ろうというその場所は、戻ろうというその場所は、
自分たちが生まれ育ってきたすべてが刻まれた土地なのだ。

親との思い出が、子供たちの成長が、
友と馬鹿騒ぎした日々が、愛する人々との楽しい記憶が、
そのすべてが刻まれた、大切なふるさとなのだ。

そしてまだ、多くの人が発見されず、
冷たい土砂や瓦礫の下で、助けを待っている。

もう命がないとわかっていても、
その愛する人たちの身体を、
どうして探さずになどいられるというのだ。

みな、血のかよう人間ではないか。


だから残る人や戻る人を責めることなど、
私にはできない。


主人「正直に言えば、
    俺は国の命令として、完全避難を進めて欲しい」


生き残った人びとは、地震に耐え、津波に耐えた人たちだ。
けれども放射線の波はまだ、南相馬の人びとを、
福島を襲い続けている。


主人「乱暴な意見だけれど、
    悲しみや思い出から無理やり引きはがしてでも、
    生き延びた人たちの未来を守ってほしい」


主人「もうこれ以上、苦しんだ人たちを
    苦しめないで欲しいと思う」


それは、現地で今も被災者を助ける立場にある
弟さんの身を案じての言葉だ。

その主人の言葉は重い――。


3月28日現在、
南相馬市は復興に向けて緩やかに歩み始めている。

南相馬市 市長からのメッセージ

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2011年3月27日 (日)

なんでもない風景

久しぶりに、子どもを連れて公園に行きました。

親子連れや子どもたちだけのグループもあって、
公園は賑やかです。

さっそくボールを蹴って、我が子と遊びます。

すると、小学生くらいの男の子ふたりが、
かわりばんこにおんぶしながら歩いてきました。

我が子は、お兄ちゃんたちの様子にびっくりして
目を丸くして固まってしまいました。

「こんにちは」と私が言うと、
「こんにちは!」と元気な声が返ってきました。


「俺たち、同じ体重なんだよ!」

「そうそう」

「こんなに身長違うのに!」


と、ふたりはわざわざ私の前に並んでくれて、
身長差を見せてくれました。
たしかに、二十センチくらいは、
背の高さが違うように見えます。


「(おんぶしてるのは)訓練なんだ」と、男の子たち。
「力持ちなのね!」と言って、手を振って見送りました。

何の訓練かはわからなかったけれど、
男の子たちがかわりばんこにおんぶして、
仲良く呼吸を合わせ、にじにじと歩いて行く姿は
微笑ましかったです。


しばらくボールを蹴っていると、今度は、
蹴ったボールがリフティング中の少年のところに
転がっていきました。

トレーニング用のユニフォームもばっちり決まった少年は、
見たところ高校生のようです。

その子が長い足で華麗にサッカーボルを操り、
足首の上で止めてみせたり、
高く蹴りあげて足で受け止めたりするので、
我が子はまたびっくりしてして固まっていました。

同じボールを蹴っているのにどうしてなのだろう?
と、考えているらしいのですが、出した結論が――。


我が子「しろとくろの、うーむ、ほしいの~」


訳すと、「白と黒のボール、とっても欲しいの」。

うーむというのは、どうやら
「はやく」とか「もっと」とか「いっぱい」とか、
なにかを強調するときに使われるようです。

とにかく我が子は自分でも
サッカーボルを蹴ってみたくなったらしいのですが、
少年は本気で練習中だったようなので、
おじゃまするのは申し訳ありません。

そこで、我が子の気持ちを逸らそうと、
今度はボールを遠くに蹴ってみました。

すると、その先には、
風船をふくらませて遊んでる小さな女の子と
そのご両親の姿がありました。

女の子は、ちょうど我が子と同い年くらいのようです。


我が子「ふーせん、うーむ! ふーせん!」


訳すまでもないのですが、
「風船、欲しい! 風船!」という感じでしょうか。

こっちにも欲しいものがあったのね……。
と、私はまた別な場所へボールを蹴ります。

すると、今度は小型のワンちゃんが
サッとボールに飛び出してきました。

公園では放し飼い禁止なので、
ワンちゃんはリードに繋がれています。

なので、ワンちゃんは、
ボールに駆け寄ったそのままの勢いで、
飼い主さんを中心に円を描くようにして、
すーっと去って行ってしまいました。

その様子がまた微笑ましくて、
飼い主の方と笑って会釈します。

我が子は突如現れ、
風の様に去っていったワンちゃんを見て、
また目を丸くしてびっくり顔です。


主人「そろそろ買い物にいくよー!」


主人が呼びに来る頃には、
我が子はすっかりふらふらでした。

久しぶりの外遊びに、
おもいっきりはしゃいだのでしょう。

帰り道は、我が子と主人と私と、
親子三人で手をつないで行きます。


生田「マスクしている人少なかったね」

主人「うん」

生田「あんなことがあったなんて、嘘みたい……」

主人「うん」


我が子と主人がボール遊びする写真を、
今も避難所で過ごす、お義母さんに送りました。

こんな、どこにでもありそうな、なんでもない風景が、
私たち家族にとっては、心の支えです。

すべてのご家庭にこんな、
なんでもない風景がもどって欲しい。
それだけでいいのにと、そう思ってしまうのです。

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2011年3月26日 (土)

いんでぃぺんでんすでい

去年の夏、我が子が卒乳した。
『卒乳』とは、おっぱいを吸うのを、
赤ちゃんの意思でやめることを言う。

一方、おっぱいをやめさせるのには、
『断乳』という方法もある。

こちらは、母親の意思でおっぱいをあげないことで、
赤ちゃんにおっぱいを諦めさせる方法。

およそ一週間で、赤ちゃんはおっぱいに頼らなくなり、
食事による栄養補給のみでよくなるという。

でも断乳の場合、
赤ちゃんがおっぱいを求めて激しく泣くので
お母さんや家族には、覚悟がいるという。

こんなにおっぱいを欲しがっているのに……、
と辛くなってしまうらしい。

ご家庭それぞれの事情や考え方があるので、
どちらがダメとか優れているとか言うことはない。
自分と赤ちゃんにあった方法が一番いい。

私は、赤ちゃんの意思を確認できる
『卒乳』の方に惹かれて、
赤ちゃんの卒乳を待つことにした。

しかしそれは、思ったほど容易いことではなかった。

卒乳派VS断乳派、お母さんVSお父さん――。
おっぱいを巡る当時のささやかな戦いを、
ちょっとだけ振り返っておきたい。


我が子は予定日より早く生まれ、身体が小さかった。
あと少し体重が足りなかったら、
危なかったかも知れないとも言われていた。

そんな小さな身体で生まれてきた赤ちゃんが、
生まれたてほやほやで看護師さんにだっこされて
やってきたとき、すぐに私の胸にしがみつき、
なんと母乳を吸い始めた。

生田「すごい! もうおっぱい吸ってる!」

看護師さん
  「みんなそうなんですよ。
   本能でわかるんでしょうね」


はじめて赤ちゃんに触れて、
体が震えるほどの感動だった。

お乳なんか今までちっとも出たこと無いのに、
赤ちゃんが生まれた途端、乳が溢れた。

母子のつながりは心だけではなく、
身体的なものもあるらしい。

おっぱいを吸う赤ちゃんの顔を見ながら、
「やっとあえたんだ!」と思った。
世界でたったひとりの私の赤ちゃんだ。

入院中、新米お母さんには、
赤ちゃんにおっぱいをあげる授乳訓練が行われる。

私がお世話になった病院はとっても丁寧で、
その頃、ちょうど赤ちゃんも少なかったこともあり、
つききりで指導していただいた。

赤ちゃんがおっぱいを欲しがったとき、
お母さんはすぐおっぱいをあげなければならない。

赤ちゃんは体力がなく、
一度にいっぱいお乳を飲めないので、
生まれて数ヶ月の間は、
授乳回数は一日、15~20回にもなる。

ほぼ二時間おきにおっぱいを求めて泣く
小さな赤ちゃんを中心に、
世界は慌ただしく時を刻みはじめた。

だが、生来の不器用さのせいで、
私は洋服をサッとめくって、おっぱいを出す、
というのが難しかった。

すると看護師さんが、リボンを結んでクリップをつけ、
服をめくりあげてすぐ止められる、
便利アイテムをつくってくださった。

だが今度は、おっぱいをサッと出せても、
赤ちゃんの口を私の胸の高さまで持ち上げて
支えていることができない。

看護師さんは、私に足を使うようにと教えてくださった。

病院での授乳は、ベッドに腰掛けてするのだが、
まず、赤ちゃんを抱っこしている腕を支えるため、
自分の肘を膝の上に乗せる。

そして赤ちゃんを腕だけではなく、
足の力も使って、膝から上へ持ち上げるようにして、
支えるようにするのだ。

でも、赤ちゃんは小さいので、
膝の位置をもっと高くしないと、
胸の高さまで赤ちゃんの口が届かない。

そこで看護師さんは、
分厚い少年週刊誌などを持ってきて下さり、
私の足の下に踏み台のように置いてくださった。

これで私の膝の位置が高くなり、
その膝に乗っけた肘の位置も高くなる。

そうして私はようやく、
赤ちゃんを胸の高さで支えることが
できるようになった。

ところが、今度は赤ちゃんに
おっぱいをふくませることができない。

視力が弱く、まだまわりが見えていない
赤ちゃんは、感覚だけでおっぱいを探し、
小さな口をぱくぱくさせる。

そこへ乳首をくわえさせねばならないのだが、
角度が合わず、どうしてもふくませられない。

そうこうしているうちに、
体力がない赤ちゃんは泣き疲れ、
そのまま眠ってしまう。

空腹の眠りは浅く、
赤ちゃんはひもじさに起きて、すぐまた泣く。

僅かな体力の全てを使って、
一生懸命、おなかがすいた!と叫んでいるのだ。

お腹をすかせて泣いている我が子に、
まだ泣くということでしか自分を表現できない、
その我が子に、うまく乳をあげられないのだ。

私は焦った。
母乳をあげようと、何度もチャレンジしたが、
どうしてもできない。

赤ちゃんの口が胸に届くように
だっこしようとするのだが、手ががくがくと震え、
赤ちゃんを支え続けることができない。

この時初めて私は自分の体が
普通の状態ではないのだと知った。
出産のせいで、激しい関節痛が体中にあり、
手足に力が入らなかった。

何度目かの挑戦の最中、
見かねた看護師さんが粉ミルクを溶いた。

看護師さん「また明日がんばりましょう」

生まれて間もない我が子が
母親に望む唯一の事を果たしてあげられないのだ。
これは大変に辛い経験だった。


以後、赤ちゃんにはミルクをあげるようになった。
空腹のまま寝かせないためだ。

退院してからも、ミルクに頼る日が続いた。
ミルクを作るたび、泣きそうになった。

そして赤ちゃんを支えられない私の腕に、
赤ちゃんが預けられることは少なくなっていった。

お母さんを休ませるため――。

それはありがたい配慮だったけれど、堪えた。

私は痛みなんかにこれ以上、やられてたまるか!と思った。
赤ちゃんをどうにか支えられるようになったとき、
今まで飲ませられなかった分も
存分に母乳を飲ませてあげたいと思った。

それが赤ちゃんが自分の意志でおっぱいをやめる、
『卒乳』を待とうと思った大きな理由だった。

母乳をあげられるようになったとき、
我が子を安定して抱とめることできたとき、
本当にうれしかった。

母乳育児がスムーズになると、
授乳訓練で指導していただいた様々なことが
自分と赤ちゃんとで実践できるようになった。

ちいさな赤ちゃんは母乳を飲むのに疲れて、
すぐ眠ってしまうので、くすぐったりして
なるべく一度の授乳でたくさん飲ませること。

私は足をくすぐるようにした。

「おっぱい飲んでくれてうれしいよ。
 いっぱい飲んで、おおきくなってね~」

そう言いながらくすぐると、
すー、と小さな寝息をたてて眠っていた赤ちゃんが、
びくっと起きて、慌てておっぱいを探して、
金魚のように、口をぱくぱくさせる。

半分眠りながらも、
一生懸命、おっぱいを飲む姿は可愛かった。

はじめての子を、主人もお義母さんも、
すごくかわいがってくれたので、
あちこち連れ出してあやしたがるのだが、
赤ちゃんが泣き出すと、
「お母さんだ!」と慌てて戻ってくる。

でも、肝心の赤ちゃんは、
まだ視力が弱いので、どうやら私の顔と、
おっぱいとが結びついていない感じだった。、

なんというか、だっこすると自動で
おっぱいを出してくれる、自動販売機というか、
おっぱいマシーンのような存在に
思ってるんじゃないか?、という気がしてならなかった。

「そんなことないよ」と主人は励ましてくれたけど、
実は、落ち込んでいたわけではなかった。

おっぱいマシーンでも、なんでも。
小さく生まれた我が子が、
元気におっぱいを飲んでくれるのが、
すごくうれしかった。

だが一方で、母乳がどんなに絶好調でも、
ミルクとの併用を考える旨の、助言もいただいた。

母乳だけで育ててしまうと、
赤ちゃんが母乳以外を飲めなくなってしまい、
お母さんの病気や仕事など不測の事態に、
赤ちゃんが母乳以外を飲みたがらず、
栄養不足になってしまうのだという。

こちらはなかなか難しかった。
母乳を飲めるようになった赤ちゃんは、
ミルクに見向きもしなくなってしまったからだ。

当時、南相馬市で仕事を請け負っていた私は、
たびたび仕事で東京出張しなければならなかった。

まだ小さな我が子を預けるという不安は、
言葉では言い表せない凄まじいものだった。

そして、母を――
というか母乳を求めて泣き叫ぶわが子の声に、
心が潰れそうになりながら家を出た。

この気持ちは、母になった人でなくては、
なかなかわからないものだと思う。

東京での仕事を終え、常磐線で4時間。
ようやく家に帰ると、赤ちゃんはひたすらに母乳を求めた。
母親のいなかった時間を埋め合わせするかのように、
何時間にも渡る長飲みをする。

聞けば私がいない間、
赤ちゃんは、母乳がやって来るのを信じて、
頑張って頑張って泣き続けていたという。
ミルクはほんの少ししか飲まなかったと。

「がんばったんだね。ありがとう」
そんなきれいな感謝の気持ちなんかよりも
心が痛かったり、悲しかったりするのだけれど、
なるべく声に出す言葉は「ごめん」ではなく、
「ありがとう」にした。

赤ちゃんがおっぱいにぶらさがって乳を飲む。
その時間が短くても長くても、それは
体力の全てを吸いつくされてしまうような
力強いものだった。

命を育てているんだ――。
そんな手応えがあった。

あまりに長飲みされると、その日は朦朧として、
へとへとになってしまうのだけれど、
それでも、いいおっぱいを出すために、
授乳しながら無理やり食事をした。

赤ちゃんの体が少し大きくなると、
クッションや体勢を工夫することで、
私は赤ちゃんを片手で支えながら、
もう片方の手で執筆を進められるようになった。

短い言葉でやり取りするTwitterは、
片手タイプ訓練の場を与えてくれた。

赤ちゃんが自分で自分の体勢を変えられるようになり、
うつぶせ寝の危険がなくなると、
おっぱいをあげながら眠ることさえできるようになった。

このとき、私より、主人やお義母さんが、
ものすごく喜んでくれていた。
「これでやっと美和ちゃんが眠れる」と。
支えてくれる家族がいるのが嬉しかった。

一方で、赤ちゃんの成長は新しい危険を孕んでいた。
赤ちゃんに歯が生え、おっぱいを齧るようになったのだ。

『断乳』を支持する方の中には、
歯が生えるまでにはおっぱいはやめさせる、
という考えもあるらしい。
それは、お母さんのおっぱいを守る、
ということでもあるのだ。

赤ちゃんの成長と共に
赤ちゃんの噛む力は日増しに強くなっていく。

加減を知らない赤ちゃんの力は、予測不可能だ。
気を付けていても、くっきりと歯型がついてしまったり、
胸が血まみれになってしまったこともあった。

それでも、傷薬を塗ったり、
ガードを付けたりしながら、授乳を続けた。

主人はそんな私を心配して、断乳を勧めはじめた。
それでも私は、生まれて間もない我が子に、
しばらく乳をやれなかったことが頭から離れず、
首を立てには振れなかった。

主人と私はなにかあるたび、
おっぱいをめぐって衝突した。

けれども最終的には
「お母さんの気持ちを大切にしたい」、
と主人が折れてくれた。

でもドクターストップならぬ、お父さんストップは度々あり、
それは胸の傷が深刻になるにつれ、長くなっていった。

もっと上の世代の方々はさらに厳しくて、
私に母親として、はっきりとダメ出しをした。

「おっぱいに辛子を塗りなさい」

「おっぱいにへのへのもへじを書いて
 赤ちゃんを脅かしなさい」

「おっぱいを飲んだら、
 赤ちゃんをバカにしなさい」

などなど……。
なんだかすごい攻撃力の高い意見が飛び交った。

その方々が子育てしていた時代には、
そもそも『卒乳』という概念がなかったことや、
おっぱいには栄養がまったくない、
などと言われてきた背景もあるのだろう。

「歯が生える頃には、
 赤ちゃんにおっぱいをやめさせるのは当たり前。
 だらだらした授乳は、赤ちゃんを軟弱にします!」

でも、どんな意見をいただいても、
卒乳を待ちたいという気持ちは変わらなかった。

そんな戦いの中でも、我が子はまさにすくすく成長し、
小さいなりにも大きくなってくれて、
母乳以外も受け付けるようになっていった。

母乳オンリーから離乳食へ。
離乳食から、おとなと同じごはんへ。

母乳を欲しがる回数もどんどん減っていった。
それでも、寝る間際のおっぱいだけは、
やめるそぶりはない。

主人「もう……いいんじゃないかな?」

生田「そろそろ自分で言い出すと思うから、もう少し頑張る」

そんなやり取りを何度したことだろう。

そうして、我が子の卒乳を辛抱強く待っていたある日――。
私はひどい風邪にかかってしまった。

お医者さんの話では、他の病気の疑いもあるので、
強い薬を飲まねばならないという。
それは、当然、母乳にも影響が出る。

数日、母乳を止めねばならない――。

とても不安なことだった。

病院から帰ってきた私になにか感じ取ったのか、
我が子はすぐ「おっぱい!」とぐずり始めた。

母親が赤ちゃんの気持を察知できるように、
赤ちゃんもまた母親の気持ちは分かってしまうのだという。

私の不安を察知したのか、
我が子はグズグズと泣き止まない。

「お母さん、お薬飲むから、しばらくおっぱい我慢してね」
と言うと、我が子は泣き止んだ。
けれども数分すると、「おっぱい!」と言ってじわっと泣く。

すると――

主人「おっぱいはないって言ってるだろ!」

それは私も聞いたこともないような、
乱暴で荒々しい主人の声だった。

火がついたように、我が子は泣いた。
食事も取らず、私の側から離れない。
私にしがみついて、
主人によって引き剥がされそうになると、
顔どころか全身を真赤にして、
この世の終わりかというくらい泣き叫んだ。

そんな我が子の様子に、胸が張り裂けそうになる。

私のせいだ。私が風邪なんかひいたからだ。

新米母親は何かと完璧を求めて、
不必要に自分を責めて追い詰めてしまうものだと
聞いていたけれど、私もまさにそうだったと思う。

真っ青になって立ち尽くす私に、
主人がウインクしていた。

「大丈夫、俺がきつく当たれば、
 おっぱいがなくても、
 美和さんにだっこされてるだけでも満足するよ。
 卒乳させるんだろ? みんなで頑張ろう」

主人の優しさに、私は胸を打たれた。
我が子は泣きつかれてそのまま眠ってしまった。
しがみついてきた手は、なかなか解けなかった。
小さな頃に戻ったようだった。

そうして数日、我が子は一生懸命に耐えた。
上目遣いで、私のご機嫌を伺うようにして、

「おっぱ、いーい?(おっぱい、飲んでいい?)」

と聞く。

「まだ、お病気なの。もうちょっと我慢してね」

と言うと、じわっと泣く。

そのうち我が子は、
私の胸をとんとんとノックするようになった。
言葉ではなくしぐさで、
おっぱいが欲しい、と言っているのだ。

声を出すから怒られると思ったのか、
自分なりに新しい方法で気持ちを伝えてくる。

「我慢してね」というと、またじわっと泣く。

これは辛かった。
いい子にしているのに、どうして?、
と言うように、声を殺してさめざめと泣く。

夜になると、
我が子は声が枯れるまで泣き叫んだ。
日中、喋らずにいた反動なのか、
声の限りに泣き喚いた。

それは虐待をしてると思われても仕方ないくらいの、
悲しみを叩きつけるような、ものすごい声だった。
心が折れてしまいそうになった。

主人はそのたびに、
「ふたりともがんばれ!」と私たちを励まし、
深夜にもかかわらず我が子を抱いて、
散歩に連れ出し、我が子が自然に眠れるまで
何時間でも歩きまわってくれた。

そうして家族三人で耐えた数日後。
薬を飲みきり、体も回復し、授乳のお許しが出た。

私は、久しぶりに我が子を胸にぴったりと抱き寄せた。
授乳のポジションだ。
抱きしめた我が子の体は、とても暖かい。

「いままでいっぱいがんばってくれてありがとう。
 お母さん、お病気治ったから、おっぱいいいよ」

そう言って授乳しようと準備すると、
我が子はおっぱいを見つめて、驚いて目を見開いた。

続いて、飲んでもいいの?と言うように、
私とおっぱいをなんども見比べて、
嬉しそうに目を輝かせている。

そして、「いいよ」と言うと、笑顔のまま、
そっとおっぱいをふくんだのだが――。

我が子はすうっと顔を引っ込めて、
おっぱいから離れてしまったのだ。

あの時の我が子の表情が忘れられない。

少し困ったような、恥ずかしそうな、
それでいて、茶目っ気というか愛嬌のある、
子供にしてはとてつもなく複雑な笑顔を――。

  うれしいけど、
  もうおっぱいいらないかも……。
  だって、ちょっと恥ずかしいもん。

言葉こそ発しなかったけど、
あの顔は、たぶんそう言っていたのだと思う。

授乳中は、色々お叱りを受けることもあり、
卒乳なんて自己満足なのかな?、
と不安になった日もあった。

他のご家庭や平均値などと比べて
自分がひどく外れたことをしてしまっているのかと、
悩んだ日もあった。

でも今は、胸を張って言える。
私は、卒乳を待ってよかったと思う。

子育ては、子どもたちの個性が違うため、
結局、何人育ててもすべて初めてのことばかりで、
したがって、過去を振り返れば後悔の連続であると言う。
それは人生と同じだ。

でも、子育ては、
できなかったこと、うまくいかなかったことを後悔した分、
こうしよう、ああしてみよう、と
未来に掛ける想いが、どんどん増えてくる。
それも人生と同じだ。

いっぱい悩んで、自分なりに決断して行動して、
そうして生きてきた道筋は、
どんなにデコボコしていても、やはりいい。

時が経つほど、そのでっぱりやへこみの、
ひとつひとつが、良かったと思える。
新しい道に挑んでいれば、なおさらだ。

我が子のあの複雑な笑顔を思い出すたび、
私は自分が通ってきた道筋を愛おしく思う。

どんなに頑張っても、
まず自分を褒められない後ろ向きな私が、
我ながら頑張ったなあと、思えるのだ。

私はまたこれからも、
過去にしでかした数々の失敗に歯噛みしながらも、
お母さんを頑張っていこうと思っている。

|

2011年3月25日 (金)

未だ見ぬ笑顔

私たちは大変な時代に生きていくのかもしれない。
そういうことが、少しずつわかってきた。

でも、私が信じるものづくりはいつだって、
誰かの笑顔を思い浮かべてやるものだったのだ。

だからもう、負けてられない。
ひとしきり泣いたら、
一生懸命、みんなの笑顔を想像しよう。

ドキドキするもの、にんまりするもの、
ガハハと笑っちゃうもの。
なんだっていい。

誰かの笑顔を思って、
その笑顔に届くように頑張っていこう。

誰かのこころの栄養になって、
じんわりとこころに力がついてくる。
そんな作品をつくっていくのだ。

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2011年3月24日 (木)

途切れることなく

被災地の方への支援の手が伸び、
南相馬市からも多くの方が避難できたと聞きました。
本当に、本当に、ありがたいことです。

人を助けられるのは、やはり
生きた人間の手だけなのだと痛感しました。

ニュースを見れば心が痛みます。
避難所で散り散りになってしまったご家族ご友人が、
また一緒に同じ時を過ごせるようになって欲しい。
一刻も早く、海と山に囲まれたあの美しい福島の風景を、
おいしい水や空気を、取り戻して欲しい。

望みはいくらでも、涙も。尽きることがありません。
おそらく、みなさんも思いは同じだと思います。

願いに比べ、自分ができることは僅かです。
ネット社会になって、様々な情報が得られる分、
無力感に苛まれることもあります。
今回のような未曽有の国家的危機では特に。

それでもそれに打ちのめされず、心の元気を保って、
誰かができなかったことではなく、自分にできないことでもなく、
今、自分ができることを見つめ、コツコツと積み上げていく――。
それしか無いのです。

節電。買い占めをしないこと。
でも、使うべきお金を使い、経済を支えること。

被災した家族にメールや電話をして、
みんなの心の声を聞くこと。

好きな作品に触れて、勇気や喜びをもらうこと。
先輩や友人に激励されたり、
悲しみを聞いてもらったすること。

そして軽くなったその心で、
また誰かの心を支えていくこと。

ひとつひとつは
たいしたことではないかもしれない。
でもきっと、そうした多くの人の思いある行動が、
途切れなくつながっていくことで、
未来のみんなの助けになると信じています。

誰もが、飲み水や野菜や雨や外出に不安を抱かず、
子供たちを思う存分、外で遊ばすことができる――。
そんな二週間前までは当たり前にそこにあった普通の日々。
それを、いつか取り戻せるように。

途切れることなく、戦っていこう。
私たちは、誰ひとり孤独ではない。
そう信じています。

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2011年3月15日 (火)

NHK南相馬市市長インタビュー

南相馬市 桜井勝延 市長への
NHKの電話インタビュー要約。
(どなたか動画があったら紹介してください)

 ・南相馬市は1800世帯壊滅と報じられたように
  大被害を受けている。

 ・そのためインフラがダメージを受けており、
  食料、医薬品、衣料品、燃料が不足している。

 ・被災者の救助活動をしたくても福島第一原発の危機で
  避難・屋内退避扱いになってしまった。

 ・家族を探しに行けず、家にも戻れず、
  国に言われたとおりに避難所に留まりじっと耐えている。

 ・被災者なのに屋内退避を命じられ、炊き出しもままならない。

 ・それでも南相馬市民は冷静に行動しており、
  市役所職員に協力してくれている。

 ・国は指示はするが、情報をくれず、
  こちらから請求せねばならない現状。

 ・南相馬市は一部壊滅しており、インフラが無い。
  普通の町とは違う状態なのだ。

 ・南相馬市は汚染地域扱いされて
  物資は避難所まで運ばれることはなく、
  30k圏外に市役所職員が取りにいかねばならない。

 ・地震と津波で大被害なのに、
  放射能の被害まで被っている状態。

 ・県と国は、この我々の惨状をなんとか助けて欲しい
  (地震も津波も原発も南相馬市のせいではない)。

 ・(南相馬市民の)他県への受け入れに協力してほしい。

 ・市民を脱出させるための「足やガソリンを用意して欲しい」。


酷い。あんまりです。

南相馬市は被災地なんですよ。
屋内退避って言ったって食べ物もない。
それで留まれって。

退避しろと言われても、福島県は広い。
ガソリンと車がなくちゃ脱出できない。

自衛隊が来ても全然人手は足りない。
マスコミも汚染地域扱いで、原発危機以降一切報じない。
外から人や物資が来ない以上、
被災者が被災者を助けるしか無い状態です。

20kmだとか30kmだとか言わずに
被災者全員を安全な所に搬送して欲しい。
食べ物を飲み物をおむつをミルクを薬を届けて欲しい。
瓦礫の下で生きてるかもしれない市民を探して欲しい。

みんなを助けて欲しい。
なんとしても、なんとしても。助けて欲しい。
みんなを、見捨てないで。

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2011年3月14日 (月)

気持ちを持って進もう

主人と歩いた浜辺も、
我が子と鮭を見に行った川辺も、
みんなでドライブした海沿いの道も、
もうないのだと言う。

いつか我が子と見たかった風景のひとつひとつが
ニュースを聞くたびに消えていった。

主人の生まれ育った場所は
もともと過疎化が進み、家々が引っ越して行き、
町がまるごとなくなっていた土地だった。

「町がなくなったとき俺は、自分が育った風景は、
 もうどこにも何も残っていないものだと思っていたけど、
 それでも美和さんと新しく作ってきた思い出まで、
 こんな風になくなるなんてな」

家族が生きていた、それだけでいい――。
そうつぶやいたきり、
主人はまた地元の様子を伝えるニュースを探した。

瓦礫の山に、流れている家具に、車に。
そのひとつひとつに。
誰かの暖かい暮らしがあったのだ。
生きて、そこに暮らしていた人たちがいたのだ。

そう思えば、ひたすらに悲しい。

この地震と津波は、大勢の方々の命を奪った。
私たちの心を壊した。

それでも生き延びた人たちを支えるために。
この気持ちを忘れてはならない。

Soumanomaoi

相馬野馬追(そうまのまおい)

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2011年3月12日 (土)

2011年3月11日

ご家族ご親戚やご友人が亡くなられた方々へ、
さぞお力落としのことと思います。

つい先日まで、
私たちと変わらぬ暮らしがそこにあったかと思うと
無念で、言葉もありません。

被災されたすべての方々へ、
必要な支援が速やかに行き届くことを願っています。
心を折らず、がんばってください。

現場で戦う方々へ、本当にありがとうございます。
心からお礼申し上げます。
どうかお気をつけて。

みなさんの無事を願って止みません。

南相馬市は主人の生まれ育った場所であり、
私たち夫婦がはじめての子育てをした場所でした。

主人に手を引かれ、
大きなお腹を抱えて歩いた浜辺。
緑濃い山々、澄んだ空気。
なにより、人々の暖かさが心に染みた土地でした。

報道を見るたび、
皆さんがただただ無事でいて欲しいと思うばかりです。

今は自分にできることをしたいと思います。
側にいる家族や友人たちを守ること。節電すること。

本当に必要な行動が正しく行われるためには、
緊急車両に道を開けるように、
緊急情報のために、道を開ける事が必要です。
今しばらくはTwitterなどでも
無関係な情報を撒き散らさないようにしたいと思います。

今できることがなくて悔しくてパニックになっている人たちは、
自分を無闇に責めたりせず、
自分のターンが来たときに力を出せるよう、
元気をいっぱい蓄えておきましょう。

最前線で戦う人々の邪魔をしないことも、
消極的に見えますが、戦い方のひとつです。

この戦いは長い――。
だから、それぞれの人たちが自分のターンが来たときに、
今がその時だと気づいて、本当に必要なことを見抜き、
最善をつくす必要があると思います。

楽しかった南相馬市での日々を少しですが貼っておきます。
あの美しく穏やかな風景が、一刻も早く戻りますように。
そして、すべてのひとたちが愛する人と再会できますように。

20110312

2008年 北泉海水浴場

20110312a

2008年 南相馬市観光マップ

20110312b

2008年 浪江町請戸川

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