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2007年9月23日 (日)

懐かしい横浜へ

ひさしぶりの横浜です。


070923


私は生まれも育ちも横浜なので、
やはり、横浜に戻ると落ち着きます。

しばらく横浜に帰ってなかった私でも、
横浜ならまあ、案内できそうな気がするワケですから、
幼少時代から蓄えた、なんとなくの土地勘は
立派な財産なんだなあと思います。

そんなおぼろげな記憶と共に元町に立ち寄ってみたら、
なんとチャーミングセールやってるじゃないですか!

近沢のレースに、キタムラのバック!
中学生くらいの時に友達と来て以来かな?
なつかしー!

両親から教えてもらったのですが、
私が子供のころに座って写真を撮ってもらった(らしい)、
「大きな赤い椅子」も健在でした。

でも変わっている場所も幾つかあるようで、
なんとなく違う感じがあるんだけど、なにが違うのかわからない
——というところも多々ありました。

たとえば、ZARAやGAPは、
私の子供時代には無かった気がするんですが、
はたしてあの場所に元々何があったのかというと、
思い出せないんですよねえ。

そんなわけで、
かなり変わった一角もあるらしいけれど、
それでも全体として眺めていると、
やっぱり懐かしいなあ、と思ってしまうのが不思議です。

きっと風景というのは、建物や地形の集合が
作り出すものじゃないんですね。

私の場合、子供の頃から見てきた横浜の風景の上に、
今の横浜を重ねて見てしまうわけです。

例えば、両親は「赤い大きな椅子」を、
元町の重要な風景の一部として覚えている。

一方、私は「友人たちとチャーミングセールに来た」
ということを、元町の風景の一部として覚えている。

ある風景というのは、
その場所に積み重なっていく記憶まで含めて、
形作られるものなのかもしれません。

特に、生まれ育った風景というのは、
自分の人生と切り離しては見られないのでしょう。

だから、私が見ている風景と、誰かが見ている風景は、
同じであって、実は違うものなんだろうなーと思います。

その人にしか感じ取られない世界があるなら、
人の数だけ、世界はあるのかもしれません。

そうだとしたら、
「話せば誰もがわかりあえる」とか、
「自分が感じていることが常識だ」とか、
簡単に思ってはいけないんですよね。

それは絶望を感じるようなことではないんですが、
誰かとの一体感を求めるような純粋なひとたちには、
悲しく思えるかもしれません。

でも、「人とは、それぞれに違うものだ」、
というのを認めてやっと、
人は話し合いの席に着ける気がします。

とりとめもなくそんなことを考えて元町を歩いた後、
少し足を伸ばして外人墓地へ。
白い彼岸花があって、ちょっと驚いたり、
海の見える丘公園で海を眺めたり……。

写真は横浜ベイブリッジです。
あいにく曇り空でしたが、風は気持ちよかった!
横浜に帰ってきたなーという感じがします。

故郷に帰ると、気持ちが和らぎます。
ここには私の人生を知ってる風景がたくさんあるから。
例えそれが、他の人に見えなくて、到底分かち合えない風景だとしても、
それでも私はすごく元気になれるんです。

いつかまた、その続きの風景を描きに戻ってくるよ。
それまで、みんな元気でね!

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